老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト
明治の初頭、秩禄処分により路頭に迷った多くの士族を受け入れるべく国家的大事業として大久保内務卿肝いりで実施された福島の安積(あさか)開拓事業。新天地を求め旧久留米藩、松山藩、二本松藩をはじめ9藩の500余世帯、2000余人が入植した。
しかし、士族たちは、慣れない農作業の内、粘土質の泥濘地に阻まれ、十分な収穫を得られず極貧の生活に陥ることに。
そこで白羽の矢が立ったのが鹿児島の篤農家 塚田喜太郎。齢60を越えて鹿児島から徒歩で安積に赴き、南国とは気候風土が異なる中、苦労の末「骨粉直播法」を考案、米の収穫量を10倍に増加させ、安積の入植者達を救ったのです。
塚田翁は、鹿児島に戻ることなく、10年後に安積の地で没しました。そして、安積は、今や福島県最大都市の郡山市に発展しました。塚田翁の功績は、立派な顕彰碑や出版物等により福島の人々に語り継がれています。
しかし、残念ながら塚田喜太郎は出身地鹿児島では無名の人にすぎません。ここに、鹿児島でも塚田翁の遺徳を偲び、顕彰碑を建立すべく本プロジェクトを発足します。
塚田 喜太郎
1821年~1890年
薩摩谷山村山田生まれの農民。
巧みな水難対策で村を洪水から救ったり、不毛の泥濘地を見事な田圃に変えるなど卓越した農業土木術を有すとともに、村の困窮者に飯米を提供する等、幕末の薩摩藩において藩庁から表彰されたこともある篤農家。
明治の初め安積開拓事業を強力に推し進めた大久保利通亡き後、事業を引き継いだ奈良原繁から、半ば懇願される形で齢60にして安積に赴き農業指導に従事。苦難の末、独自の農法を編出し、不毛の安積の地を恵みの地に変えた。薩摩に戻ることなく10年後同地に没した。
「老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」で何をやるか
プロジェクトの目的は、九州、特に鹿児島において塚田喜太郎の功績を再評価し、広く市民にその遺徳を知ってもらうことです。具体的な活動としては、「顕彰イベント」、「記念誌の発行」、「顕彰碑等の建立」などを行います。
プロジェクトではクラウドファンディングを立上げるなどして寄付金を募り、具体的に以下の事業を行う予定です
(1)顕彰イベントの開催
鹿児島市、郡山市、福岡市で顕彰イベント(講演と芝居)を開催
(2) 記念誌の編纂・刊行
塚田喜太郎翁について知ってもらうため記念誌を編纂の上、刊行
(3) 塚田喜太郎顕彰碑等の建立
・郡山の塚田喜太郎墓への燈籠、顕彰碑文、切り絵の陶板の設置
・鹿児島市谷山の生誕地近くへの顕彰碑の建立
なお、今年9月1日の大久保神社の水祭り翌日、龍角寺の塚田翁の墓参を行い、宮下住職が準備した燈籠や顕彰碑文碑、切り絵の陶板を寄贈することになっています。
老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」設立の経緯
1 鹿児島の関係者が「塚田喜太郎」を知った経緯
2019 年9月、郡山市の大久保神社第130 回水祭りに鹿児島から約30 名が参加し、その際に紹介される形で同市喜久田町の龍角寺の塚田喜太郎の墓を訪ねたことが、「塚田喜太郎」を知るきかっけとなりました。
広い墓地で唯一、西向き(鹿児島方面)に向けて建てられた塚田翁の墓を見て、望郷の念を抱きつつ安積で没した翁に深い憐憫の情を感じました。また、塚田翁の住居跡近くに建立された顕彰碑に刻まれた碑文を読み、その偉大な功績に驚くとともに、郡山では語り継がれ顕彰されているにもかかわらず、故郷鹿児島では全く知られていないことに残念な思いを抱きました。
2020年9月、前年の郡山訪問者の一人、鹿児島の天台宗南泉院の宮下亮善住職が、塚田翁の功績を偲び、またその御霊を慰霊する目的で龍角寺の塚田翁墓に「その遺徳遥かなり 安積開拓事業の礎となる」を刻んだ石柱を寄贈しています。
2 福岡、久留米との関わりとプロジェクトの誕生
2023年3月、福岡在住の歴史作家浦辺登氏が『明治4年久留米藩難事件』を出版し、書中において、多数の旧久留米藩士族が安積(郡山)に入植した経緯や、荒れ地の開墾で困窮を極め離散する者も出る中塚田喜太郎の農業指導により入植者が救われたことなどが紹介されました。この本がきっかけとなり、鹿児島と福岡の有志で交流が始まり、この度、鹿児島、福岡共同で「老農塚田喜太郎顕彰プロジェクト」を立ち上げることになりました。
南泉院 宮下亮善和尚 塚田喜太郎を語る(動画)
1 「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」から始まった物語
2 塚田喜太郎を知ったきっかけ
3 塚田喜太郎とは何者か
4「老農 塚田喜太郎顕彰プロジェクト」でやりたいこと
浦辺登 塚田喜太郎を語るパート2
第2話 「塚田喜太郎はどのように学んだか」
第1話 「塚田喜太郎は何者か」
浦辺登 塚田喜太郎を語るパート1
1 「久留米藩難事件と福島県郡山開拓事業」
2 「久留米藩難事件と老農塚田喜太郎」
「老農 塚田喜太郎について」 歴史作家 浦辺登
現代日本において、塚田喜太郎(文政3~明治23、1820~1890)の名を知る人はごく僅か。一介の農夫が歴史に名を刻むなど稀なことだが、名を遺した。喜太郎は現在の鹿児島市武町、中山町における新田開発、大隅半島肝付での開墾に成功。沼や池を埋め、灌漑、土壌改良を成し遂げた。その手腕を乞われ、明治13年(1880)、現在の福島県郡山市の安積開拓地に招かれた。招聘したのは奈良原繁。奈良原といえば、文久2年(1862)の寺田屋事件で、君命を受け、有馬新七らの決起を抑えた人として知られる。
齢60を過ぎた喜太郎が招かれた安積開拓地には、九州久留米の士族たちが入植していた。いわゆる、士族授産として刀を鍬に握り替えての武士の農法だった。喜太郎を招いた奈良原には一つの禍根があった。久留米の入植者たちは、寺田屋事件に関わった真木和泉守を領袖とする久留米勤皇党の残滓でもあったからだ。奈良原の上司ともいうべき人は大久保利通。大久保も文久2年に真木と福岡筑後の羽犬塚で日本の行く末を討議した仲だった。さらに、真木の主君であった久留米藩主・有馬頼永の正室は島津斉宣の娘・晴姫だった。薩摩と久留米の、切るに切れない複雑な事情があったのだ。
しかし、喜太郎にとって、そんな武士の義理など関係ない。薩摩で蓄えた自身の農業技術を新天地で試したい。面白い!そんな躍動感に駆られたに違いない。お天道様の下、広大な大地が相手の農業においては、武士の論理、自尊心など何の役にも立たない。天地の間に生きる人はすべからく同じ。そして、「生きることは食べること。食べることは生きること」。百の言葉より実際の行動をもって、喜太郎の思いは見事、新天地の安積開拓地で結実した。けれども、明治23年(1890)2月21日、故郷鹿児島の方に向けてくれとの言葉を遺し喜太郎は病没。見事、福島県郡山に骨を埋めたのだった。
同じ日本でも東北地方は貧しかった。冷害、日照り、大地震、大津波で東北の民はバタバタ倒れていく。この時、近代農法を確立しなければ永久に東北の民は救われないとして岩手県盛岡に赴いた薩摩の男がいた。玉利喜造(安政3~昭和6、1856~1931)だ。明治8年(1875)、風雲急を告げる鹿児島において、西郷隆盛に世界情勢を説いた。「おはんは、学問でこん国を立て直しもんせ」との西郷の声に押し出され、玉利喜造は上京、アメリカ留学も果たした。農科大学教授(現在の東京大学農学部)の職を辞し、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の初代校長に着任。東北に近代農業の礎を築いた。その卒業生には「雨ニモ負ケズ」の詩人、花巻農学校教師であった宮沢賢治がいる。
西郷は農本主義者と称えられる。農本主義とは「農は国の本なり」という思想だ。まず、民の安寧の初めは食べること。人の生命を支える農業は国の根幹を支えることに繋がる。西郷、大久保、奈良原らは、世の安寧のため農業で人の生命を救いたかった。その最前線で黙々と老農・塚田喜太郎は農業技術を伝授し、日本の民を支えた。故に、この老農・塚田喜太郎の功績を称えることは、西郷、大久保、奈良原らの願いを伝えることにも繋がるのだ。