一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

浦辺登の書籍紹介2(No100~)

目 次

108.『米欧回覧実記1 アメリカ編』慶應義塾大学出版会編、2008年
107.『エマソン 自分を信じる言葉』佐藤けんいち著、ディスカバー・トゥェンティワン「月刊日本4月号」掲載

106  新版『凜』永畑道子著、藤原書店、2017年、初版1997年
105.『一人一殺』井上日召著、河出書房新社、2023年
104.『大川周明』大塚健洋著、講談社学術文庫、2009年
103.「渡辺京二論」三浦小太郎著 弦書房「月刊日本3月号」掲載
102.『北一輝論』松本健一著、講談社学術文庫、2002年
101.『田中清玄自伝』田中清玄著、大須賀瑞夫インタビュー、文藝春秋、1993
100.『日本がダメだと思っている人へ』江碕道朗・田北真樹子著、ビジネス社、2024年
〔1~99は「浦辺登の書籍紹介1」に掲載しています)

108.『米欧回覧実記1 アメリカ編』慶應義塾大学出版会編、2008年

・新興国アメリカの実態から学ぶ事々

金子堅太郎(1853~1942)が晩年に執筆した「自叙伝」を読み解いている際、記されている内容に不足を感じ、その補記の必要性から本書を読み進んだ。金子は明治4年(1871)の岩倉使節団、いわゆる遣欧使節団に便乗してアメリカに渡った。「自叙伝」には、横浜を出港する使節団についての詳細な記述がない。そこで、使節団の書記官役でもあった久米邦武(後の歴史家)の記録を追ってみた。しかし、本書においても、久米の記憶違い、勘違いも指摘されており、カメラやビデオ、コピーも無い時代のことだけに、金子の「自叙伝」に誤記、記憶違いがあったとしても、それを責めることはできない。

本書は遣欧使節団の記録だが、アメリカ建国の歴史、風俗、南北戦争後の新興国家アメリカの姿を知ることができる。一般に、大日本帝国憲法は伊藤博文がプロシア(ドイツ)のビスマルクの影響を受けてのものといわれる。しかし、久米邦武、畠山義成(杉浦弘蔵)によってアメリカの成文憲法の研究が進んでいた。畠山義成とは、幕末、薩摩藩がイギリスに密航留学させた若者の一人だ。残念なことに、34歳という若さで没したのは残念としか言いようがない。成文憲法の翻訳、研究の進捗状況を木戸孝允が毎晩確認に来ていたが、このことは、金子の「自叙伝」にも記載されている。憲法草案に参画した金子もこのアメリカ憲法の翻訳などを参考にしていたのではないだろうか。

遣欧使節団の目的は、幕府が締結した不平等条約の改正にあった。ところが、アメリカ側のリップサービスでトラブルに巻き込まれ、改正の脈ありと見た副使の大久保利通と伊藤博文は急遽、天皇陛下の全権委任状を取りに帰国している。現代のように、飛行機で数日のうちに戻ってくるなどという時代では無く、太平洋を往復する蒸気船の船足の鈍さに大久保も伊藤も足踏みしていたのではないか。

そんな大久保、伊藤の使節団への合流を待つ間、久米邦武はアメリカの産業構造、建国史、南北対立の起因を記している。これらは現在の日米関係において、「日米同盟」と口にする方には必須の事々と考える。いかに日本人がアメリカのことを何も知らないかを知るだろう。この産業構造の中で、アメリカは潤沢な金銀銅、鉄、石油などの鉱物資源に恵まれていることがわかる。更に、大規模農場の経営によって綿花を始め、麦、トウモロコシなどの穀物が輸出産品になっていることを知る。驚くのは、早い時期から水田での米の栽培も行われていたことだ。大東亜戦争(太平洋戦争)に敗北したから、日本はアメリカから米を輸入しなければならなくなったというのは、再検証が必要だ。

また、この遣欧使節団の記録を読み進みながら思い起こしたのは、大久保利通が福島県の安積開拓に膨大な予算を投じて疏水事業を推進したことだ。そのモデルがアメリカにあるのではと思った。アメリカは大陸国家と思ってしまうが、運河、水路を掘削して水運を盛んにし、農作物の栽培と輸出に励んでいたのだった。猪苗代湖から水を引き、稲田を開くという発想はアメリカにあったのだと合点がいった。

この遣欧使節団とは別に武士の秩禄処分の借金のため、吉田清成(薩摩)、大鳥圭介(幕臣)らが派遣される。このときの借金の担保は、40万石の米を積み上げることだった。いわば、新規に毎年、40万石の米を収穫しなければならなかった。ここにも安積開拓事業が国家プロジェクトとなった背景があるのではないだろうか。

遣欧使節団の記録だが、そこから見えてくる事実は現代に生きる日本人にも十二分に参考になるものだった。現今日本では人口減少の補填のために移民を入れるという議論がある。この点も、新興国アメリカでの議論の対象だった。移民を入れると、質が維持できなくなり、じり貧に陥る結果を招くというアメリカ識者の意見があり、150年前のことだからとは言えないものがある。人間の本質は、早々に変化はしない。そう考えると、この遣欧使節団の記録は熟読する価値がある。

107.『エマソン 自分を信じる言葉』佐藤けんいち著、ディスカバー・トゥェンティワン「月刊日本4月号」掲載

「ひとりでいても淋しくない人間になれ」

ふと、頭山満が遺した言葉が思い出された。それが、本書のC15に出てくる「群衆の中にひとりで立つ勇気をもて」の件だ。ガンディーにも同じ意味の言葉があるという。究めれば、東洋も西洋も紙一重か。

「自己信頼」として148の言葉が並ぶが、言い回しはキリスト教的だが、論語で目にした言葉と重なる。読み進みながら、これらの言葉を操ったエマソンとは何者なのだろうかと興味を抱いた。エマソンことラルフ・ウォルドー・エマソン(1803~1882)は、ハーバード大学を卒業後、いくつかの職を転々とし、人生の目的、使命として牧師の道を選んだ。しかしながら、「内面の声」から講演家に転身した。この講演家としての業績が多くの人々に感動と勇気、希望を与えることになる。それは鈴木大拙、徳富蘇峰という著名な思想家たちも伝播していた。

試しに、どの頁でもよいので飛び込んで来た言葉、文章を読んでみる。実に平易な言葉でエマソンの考えが述べられる。しかし、深い。そして、この言葉は仏教経典にもたとえがあったような、などと思い起こす。要は、自身を取り巻く環境が変化しようが、真実は一つ。時代が新しかろうが古かろうが、東洋であれ西洋であれ、人間の求める真理は変わらない。思わず、福澤諭吉を思い起こして笑ってしまったのが、C17の「言動の矛盾を恐れるな」だ。教育者、思想家として著名な福澤といえども、日々、新たな一日を生きていたのだと納得したのだった。

本書の「はじめに」にも述べてあるが、著者の『言志四録』と併読してみれば、東洋と西洋の思想の究極に差異が無いことに気づく。西郷隆盛や渋澤栄一が傾倒した佐藤一斎の言葉とエマソンの言葉が重なり合ってくるからだ。その結果が鈴木大拙、徳富蘇峰に伝播したと見た方が良い。いずれにしても、有用な言葉を一日一話、日めくりカレンダーのように熟読していくことをお薦めしたい。

106 新版『凜』永畑道子著、藤原書店、2017年、初版1997年

・玄洋社生みの親、育ての母の物語

本書は、高場乱の評伝小説だが、高場乱の名前の読み方は「たかばおさむ」だ。意味としては「乱れた世の中をおさめる」としての「おさむ」だ。更に、女性として誕生したものの、男性として育てられ、封建的身分制度の厳しい江戸時代、帯刀を許されていた。「まさか・・・」という返答が返ってくるか、「本当ですか!」という驚きの声があがる。その高場乱の評伝小説だが、全5部、序章、終章を含んで全15章で構成される。著者の想像を膨らませての箇所もあるので、小説として大筋を理解した方がよい。

高場乱は天保2年(1831)10月8日、眼科医の高場正山の次女として九州博多に生まれた。正山には先妻の息子がいたが、福岡藩の支藩である秋月藩に眼科医として招かれた。長女は嫁ぎ、高場の眼下術を継ぐ者がおらず、正山は次女を福岡藩庁に男として届け出、眼下術を乱に継承させた。異様といえば異様だが、それを受理する福岡藩庁も福岡藩庁だ。さほど、江戸時代、眼科医は身分の上下関係なく、貴重な存在であったということだ。

高場乱は「亀井の四天王」と呼ばれるほど学問に優れていた。「亀井」とは、国宝金印の鑑定書を書いた儒医(儒者であり医者)である亀井南冥が開いた学塾の一門のことをいう。さらに、実父である正山から眼科術を伝授された。ところが、時代は幕末の動乱の時期を迎え、乱の周辺も慌ただしい。そして、明治の時代を迎えるが、ここでも世間は落ち着かない。乱世にこそ、万民を思う志を立てる学問をしっかりと伝えなければと考えた乱は人参畑塾こと興志塾を開く。ここで近在の荒くれ者を集め講義をするが、ここに加わったのが後の自由民権運動団体「玄洋社」を創立する面々だった。

玄洋社といえば、外相の大隈重信を襲撃した来島恒喜が有名だ。大日本帝国憲法に違反すると知りながら、諸外国との条約改正を進める大隈を諫止するために来島は爆裂弾を大隈に投じた。この一撃がなければ、今頃、日本は欧米のどこかの植民地だろう。さほど、重要な問題回避を来島は一人で引き受けた。来島も高場の塾生の一人だった。

著者は女性で生まれながら、男性として生涯を送った高場乱の微妙に揺れる心を描いている。これは女性ならではの視点である。1997年に初版が刊行され、現代においても読み継がれているというのも、不思議なものだ。今も日本全国から、この高場の墓参りに玄洋社墓地(福岡市博多区・崇福寺)に集う女性たちがいるのも、本書の影響からではと考える。

高場乱は明治24年(1891)3月31日、静かに息を引き取った。玄洋社墓地に立つ高場乱の墓碑は勝海舟によるものだ。勝海舟は高場乱の弟子である来島恒喜の墓碑も東京・谷中霊園に建てた。子弟共々、勝海舟と関係があるというのも、海舟が高場、玄洋社にシンパシーを抱いていたということではないだろうか。勝海舟も万民を思いやる気持ちの強い人だったが、高場乱の生き様に共感を覚えたのだろう。これからも、こういう生き方をした人がいたとして、本書は読み継がれていくことだろう。

105.『一人一殺』井上日召著、河出書房新社、2023年

・同じ過ちを繰り返さないためにも時代状況を知っておくべき

「一人一殺」という危なっかしいタイトルに驚くが、それもそのはず。昭和7年(1932)に続けて起きた要人殺害事件の領袖が著者になるからだ。いわゆる「血盟団事件」と呼ばれる事件の首謀者が井上日召だが、その配下の菱沼五郎が井上準之助(蔵相、日銀総裁)を、小沼正(おぬましょう)が團琢磨(三井合名会社理事長)を殺害した。その井上日召が、大東亜戦争(太平洋戦争)後に、乞われて記述したのが本書になる。

自伝であるために、失念した箇所は多い。しかしながら、昭和7年当時の日本の世相が窺えて、興味深い。特に、この時代を俯瞰すると大正3年(1914)に始まった欧州大戦(第一次世界大戦)によって日本は好景気に湧いた。しかし、戦争終結後には不況に陥り、昭和4年(1929)のニューヨーク株式暴落での世界恐慌の余波を受けているときだった。それでいて、日本の政財界は権力闘争に明け暮れ、三井をバックにした政友会、三菱をバックにした民政党が鎬を削り、庶民の生活困窮に目を向けることがなかった。とりわけ、農家の疲弊ぶりは天候不良も加わり、娘は借金のカタに身売りしなければならないほど悲惨だった。

そんな日本の現状を改革しなければと行動に移したのが、井上日召のグループだった。政財界の要人を殺害することで、無用な政争を止め、本来のあるべき姿の政治を求めるのだった。その一連の動きが井上日召によって述べられている。少年期のキズともいうべき想い出、青年期の悩み、壮年期の苦悶などが正直に語られる。その回想とともに、明治維新を経ての日本の問題点が浮かび上がる。歴史の浅いアメリカの影響を強く受けた日本は、個人主義に染まり、さらに資本主義、社会主義に分派して弾圧と抵抗を繰り返す。未成熟の議会制民主主義も資本主義による三井、三菱の代弁者に成り下がり、庶民の救済などは眼中になかった。そんな現実を日本国外から改革しようと試みる者、日本国内で直接に改革する者に分かれたが、井上日召は中国大陸からの改革から日本国内での直接の改革に転じる。その手段が要人の殺害だった。井上準之助は金解禁によって、團琢磨はドル買いによって、経済の混乱を招いたとしての殺害だった。これら一連の災禍は、いわゆる金融資本主義による弊害とでもいうべきだろうか。

いずれにしても、「歴史は繰り返す」という原理からすれば、現今日本と同じ状況が昭和という時代にあったのだ。為政者も含め、よくよく、当時の政財界の状況は研究されなければならない。その反省を求める教科書としての一冊である。

尚、本書の読みどころについては、347頁からのノンフィクション作家礫川全次(こいしかわぜんじ)氏による解説がポイントを突いている。

『大川周明』大塚健洋著、講談社学術文庫、2009年

・大東亜戦争の理論家・大川周明

現代、大川周明という人物について知っている人は、どれほどいるだろうか。歴史に詳しい方であれば「ああ、あの東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷で、東條英機のはげ頭を後ろから叩いた人ですね」と言うだろう。もはや、日本とアメリカが戦争をしたなど知らない世代が大半を占める日本において、この大川周明に関心を抱く人は皆無と言ってよい。

大川周明は明治19年(1886)、山形県の医師の子息として誕生した。熊本の第五高等学校(旧制)、東京帝国大学を卒業。様々な思想遍歴を経るが、西郷隆盛の「敬天愛人」思想が根底にある。その大川が日本からアジアへと目を転じる契機となったのがヘンリー・コットンの『新・インド』だ。イギリスの植民地として圧政に苦しむインドの現状を知り、植民地アジアの解放が日本の天命であると悟るのだった。その過程において、財閥と癒着した政党の政治改革を進めるには軍事クーデターが必要と考える。これは一時、思想を共有した北一輝の影響が大きい。ここで大川は、民間人ながら、武器弾薬、資金を五・一五事件の海軍青年将校たちに供与したことから、獄窓の人となる。

出獄後も大川の才能を惜しむ人は多く、二・二六事件後、満鉄(南満洲鉄道)、外務省、陸軍省の資金で設立された東亜経済調査局付属研究所の所長となる。このとき、全寮制の研究所の寮長を務めたのが五・一五事件の海軍青年将校山岸宏であり、副寮長は陸軍士官候補生の菅勤だった。事件の仲間である古賀清志、三上卓は大川に対し信頼を置いていなかったのか、行動を共にしていない。

五・一五事件では思想的指導者としては権藤成卿がいる。この権藤は一時、内田良平が代表を務める「黒龍会」に関係していた。黒龍会といえば自由民権運動団体の玄洋社とともに、GHQ(連合国軍総司令部)から超国家主義団体として解散命令を受けている。この黒龍会は、「The Asian Review」と言われる英文の機関誌も発行していた。この編纂に関わったのがフランスの詩人ポール・リシャールだ。親日家のポール・リシャール夫妻だが、ミラ夫人はインド人。大川はミラ夫人を通じてインドとの繋がりを強くする。大東亜戦争(太平洋戦争)後、インドのネルー首相が来日するとインドの恩人として大川は敬われるのだった。

大川周明について、東京裁判での狂態という表面的な情報を鵜呑みにすると誤解を生じる。GHQの都合によって日本の歴史は書き換えられ、いまだ、修正、訂正はされていない。それだけに、大川周明の人物像を追うにあたって本書は有用な論考となっている。特に、194頁からの「大東亜戦争の理論家」の章は必須だろう。日露戦争において親日的といわれたセオドア・ルーズベルト大統領が、日本の侵略計画(背後には海軍戦略家マハン)に関わっていたことを大川が解説している。アメリカは大川を戦争犯罪人として糾弾し、なんとしてでも口を封じたかったのだ。本書から、大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦以後、いかに日本人がGHQの洗脳工作によって操られているかがわかるだろう。

103.「渡辺京二論」三浦小太郎著 弦書房「月刊日本3月号」掲載

三浦小太郎氏が解説する渡辺京二の新刊を楽しみにしていた。というのも、筆者は2016年に刊行された氏の『渡辺京二』(言視舎)の書評を東京新聞(5月15日付)に寄稿したことから、氏の解析の進化を確認したかったからだ。読了後の率直な感想として、実に読みやすく、肩の力が抜けた氏の筆致になっている。渡辺京二が現世の人ではない、という要素もあるが、約8年という年月が氏の洞察力を更に深めたことが大きい。

3部構成、全27章、350頁弱の本書において、特に取り上げたいと思った箇所はいくつもある。まず、27頁の渡辺京二が青少年期を過ごした満洲の大連での体験だ。人工都市大連は民衆の生活と歴史が重積する「共同体」から切り離された空間であり、共同体の存在しない世界は弱肉強食の階級対立を生み出しかねないという言葉だ。

次に、94頁からの「三島由紀夫事件への衝撃」だ。三島事件に対し、自民党と共産党は「めでたき一致」を勝ち取っていると渡辺京二が断じたことだ。然り、然りと頷く。

147頁から始まる宮崎滔天の章は渡辺京二を論ずるにあたり、欠かせぬ素材だ。それというのも、渡辺京二の『評伝宮崎滔天』と三浦氏の『渡辺京二』の編集に小川哲生氏が関係しているからだ。故に、本書における肝がこの章といっても過言ではない。とりわけ、滔天と内田良平との確執は共にアジア主義として行動しながらも、アジア主義と一括りには語れない現実を示してくれた。

そして、204頁の北一輝と権藤成卿の思想の相違から、「社稷」という桃源郷の在り方を解析してくれたことは、後に続く研究者に一つの気づきを示してくれたのではないだろうか。あれもこれもと、筆者自身も大いに刺激を受けたが、その全てを紹介できないことが実に悔しい。渡辺京二の魅力を改めて解析してくれた三浦小太郎氏の力量に感嘆し、同時に、渡辺京二の思想を更に昇華できるのは三浦小太郎氏しかいないと確信した。

102.『北一輝論』松本健一著、講談社学術文庫、2002年

・著者の「唯一のゾレン」を書き残して欲しかった

昭和11年(1936)2月6日、いわゆる「二・二六事件」が起きた。陸軍青年将校による蹶起だが、この事件において民間人である北一輝(1883~1937)までもが処刑された。実際の行動に参加したわけでもなく、陸軍青年将校たちの国家改造の思想的指南役ともいうべき立場が北だったにも関わらず。しかし、政権側は陸軍青年将校たちを扇動したとして北を処罰した。法律でいえば「殺人教唆」の罪で無理矢理に裁かれたと言ってよいかもしれない。

北一輝は現在の新潟県佐渡島に生まれた。実家は裕福な資産家だったが、交通機関の近代化により、北前船で栄えた日本海側の港は衰退の一途をたどっていた。それでも、北は上級学校に進み、明治の青年特有の新時代の知性に溢れていた。与謝野鉄幹、晶子に代表される短歌の「明星」にも自作を寄せるなどしていた。

その北の思想の変遷において、わずか21歳という年齢で「国民対皇室の歴史的考察」という「国体論」を発表したことは北の進むべき道を確定したといってもよい。この国体論によって北は政府当局から「社会主義者」「危険思想」としての烙印を押され、弾圧を受けた。その北の国体論は明治新政府の根幹を成した薩長藩閥、特に長州閥にとっては目障りな国体論だった。長州閥は天皇を不可侵の「現人神」として祭り上げ、中央集権国家を創り上げたからだ。ここに、北は異論を述べたのだ。中央集権国家のために創造された「現人神」であるのは、長州閥の山縣有朋だけが認識していたと言われる。

北一輝は国家にとっての「天皇とは何か」を追求していた。一時は、自由民権運動を国民のための天皇としての運動としてみていた北だったが、やがて、自由民権運動が国家改造にまでは至らない現実を知る。そこから、外部から国家の改造を試みる。これが中国革命こと辛亥革命の孫文との共闘だったが、その革命も西洋かぶれの孫文にシンパシーを感じることはなかった。むしろ土着的な、東洋の社稷(共同体)に基づく革命を支持した。その東洋的革命を進めていたのが宋教仁であり、北は中国人になりきってまで宋を支援していた。しかしながら、その宋教仁も袁世凱に暗殺される。ここで、北は日本の国家改造は日本で行わなければと考えたのだった。

この国家改造において、北は言論で主張した。これが陸軍青年将校の共感を呼び、その柱石として青年将校たちは北を据えたのだった。北はそのことに関与せず、我が道を行くを貫いていた。その一つが、三井からの過分な盆暮れの付け届けを厭わなかったことにある。しかしながら、二・二六事件においては、政府は北が危険思想を陸軍青年将校らに説いたとして闇の中で封じてしまった。天皇制中央集権国家を維持したい内務省、宮内省、財閥などは北が刑死によって二度と蘇らないことに安堵したのではないか。現今、この事件を陸軍の「皇道派」「統制派」の抗争として片付けるが、これは政権中枢の思惑による創作であり、責任逃れでしかない。これは、大東亜戦争(太平洋戦争)における戦争責任を陸軍首脳部などに押しつけた事にも見て取れる。

北一輝の思想を評価したのは村上一郎であり、その村上一郎の評論に共感を示したのが三島由紀夫だった。三島が自決した後、村上も後追い自決したが、曖昧なままの国家体制で良いのかという天皇への直訴でもあった。天皇への直訴は自身の生命を犠牲にしなければならない。ゆえに、三島の蹶起が二・二六事件での陸軍青年将校にシンパシーを感じたからと言われる由縁にもなる。

著者の松本健一は2014年に亡くなった。本書を読み進みながら、大川周明(1886~1957)、権藤成卿(1868~1937)の思想的関係性が述べられていないのに不思議だったが、まだ、これからという気持ちがあったのだろうか。著者自身の「唯一のゾレン(理想)」を書き残して欲しかった。それらを読めないのが実に残念で仕方がない。

101.『田中清玄自伝』田中清玄著、大須賀瑞夫インタビュー、文藝春秋、1993

・掘り下げると、まだまだ、事実が出てくるのではと思う

本書は田中清玄(1906~1993)という自称「右翼」の自伝である。その田中が1991年3月から93年1月までに口述したものを大須賀瑞夫が自伝としてまとめたもの。全5章、390頁弱に田中清玄の履歴、「左翼」から転向した後の事々が綴られている。

この自伝の中で、不満を感じる箇所がある。中国共産党の幹部であり、改革開放政策を進めた鄧小平との親交の深さを語る田中だが、1989年におきた民主化運動を求める学生たちを武力弾圧した「天安門事件」についての記述がないことだ。天安門事件は鄧小平による決断が決め手となって鎮圧されたが、この事件についての田中の感想が無い。これは、インタビュアーが意図的に削除したのか、田中自身が語らなかったのかは、不明。しかし、この天安門事件についての感想がないのは、自伝といえども汚点ではないだろうか。

更に、361頁には、中国共産党によるチベット、ウイグルの民族浄化、弾圧についての言及が無いことだ。むしろ、自治共和国としてチベット、ウイグルは政治的にも経済的にも、自立していると田中は語っている。これは、中国共産党に対して田中自身の「忖度」が働いたのだろうか。それともインタビュアーの意図的な「創作」なのだろうか。

全体として、帯にあるように「日本でいちばん面白い人生を送った男」というコピー通りだが、見逃しがたい中国共産党の重大犯罪、人権蹂躙については看過できないだけに、全体を田中の口述どおりに受け止めるのは危険だと思った。

ただ、222頁に出てくるインドネシアのアラムシャ将軍の話は興味深い。インドネシアが数世紀にわたるオランダの植民地支配から独立した後、初代大統領のスカルノは容共主義者としてインドネシア国内での対立抗争を招いた。このアラムシャの身辺にいたのが、インドネシア独立運動を支援し、そして、国外追放された黒岩通ではないかとの推測を呼び起こすからだ。インドネシアの石油資源を利権として左右したのが岸信介、河野一郎、児玉誉士夫らだが、反して国益として活動していたのが岸の弟の佐藤栄作、田中角栄らだった。田中は岸信介、河野一郎、児玉誉士夫を徹底的に嫌ったが、佐藤栄作、田中角栄に対しては評価が180度異なる。ここは時代の中枢にいた人物の動きとして面白い。

田中は幕末維新の時代、孝明天皇の親任が篤かった会津藩の家老の家の出だ。「賊」の汚名を着せられたことの悔しさを胸に秘めながらも、そのプライドの高さ、強さを印象づける生涯だった。左翼活動家としての人生を反転させたのは、実母の自害だが、ここにも会津武士としての気概を感じる。

願わくば、巻末に主要人名録が欲しかった。年表があり、関連する人物紹介がありながら、人名録がないのは残念。いずれにしても、口述筆記したものだけに、読みやすい。しかしながら、時代背景、歴史を知らなければ、田中の人生を深くは理解できないだろう。

ちなみに、子息は現在、早稲田大学総長を務める田中愛治氏だけに、研究者によって更なる深掘りがなされても良いと考える。

100.『日本がダメだと思っている人へ』江碕道朗・田北真樹子著、ビジネス社、2024年

・インフラ整備含む安全保障を考えなければならない時代

1月28日(2025)、埼玉県八潮市で道路陥没事故が発生した。老朽化した下水管に土砂が流れ込み、下水管上部の道路が陥没したという事故だ。更に、陥没した穴にトラックが突っ込み、運転手は行方不明という。八潮市は人口10万人程の都市だが、近年、住宅開発が進んでいる。風呂、洗濯などの使用を控え、下水管への汚水の流入を防ぐ手段をとっているが、有効な対策は打てていない。今後、このような災害(有事)が日本各地で増加するものと見られている。

本書は、岸田政権時代、防衛予算が大幅に増加されたことを受けての対談。防衛予算増加イコール兵器の購入と考える方への誤解を解消する目的がある。むしろ、防衛予算増は、公共インフラ整備を含むものであり、国内向けの景気対策でもある。この説明が岸田政権では不足していたのではと懸念される。有事(災害)になれば、民間施設の利用、民間企業の活用、民間人の動員は当然のこととなる。今回の八潮市の対応を俯瞰しながら、通信インフラを含む生活基盤の充実が図られたら良いなと考える。

この有事に対しては、政府の機能も省益から国益優先の機構改革が進んでいるという。更に、政党間においても自民・公明の与党一強ではなく、国民民主が与党に準ずる考えを示すということにも、時代の変化を感じる。時代の変化といえば、国防の最前線に立つ陸海空の自衛隊に加え、今後はサイバーテロ、ドローン、宇宙軍についても装備と知識を備えておかなければならない。それらを見据えての防衛予算の増加なのだが、人員の補充、教育訓練など、まだまだ問題は山積である。予算を充当すれば解決できるというものではないだけに、長期間での対応をも考えなければならない。

長期間といえば、近年、中国海軍の実力が伸びてきている。従前、中国海軍の実力を軽視する傾向にあったが、見直しを図らねばならない。それには、軍事力の分析はさることながら、語学、歴史も知らなければ対処できない。そのための防衛予算増加である。いざ、というときは、自衛隊と米軍がなんとかしてくれると、安楽に考えていられる時代ではなくなったということだ。あの軍事大国アメリカに衰退の兆しが見えるなか、駐留米軍の撤退も想定しておかねばならない。

全7章、240頁弱の本書では、この10年で日本を取り巻く環境が大きく変わったことを知ることになる。「日本がダメだと思っている人へ」というタイトルだが、読了後、「日本をなんとかしなければ」に意識が変わった。八潮市の道路陥没事故は八潮市だけにとどまらず、周辺の自治体にまで影響が及んでいる。埼玉県全域を視野に入れた生活インフラの再整備が始まると思うが、これは日本全体の問題である。
国家の安全保障とは、単なる軍事部門だけにとどまらないことを気づかせてくれる一書だった。

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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