一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

寄稿

「島尾敏雄と指宿そして宇宿 」その3    宮島孝男

【宇宿編】
〈島尾一家と鹿児島市宇宿〉
 一九八五(昭和六十)年十二月、宇宿町二五五三番地に転居。この年、敏雄六十八歳、ミホ六十六歳、マヤ三十五歳。翌一九八六(昭和六十一)年十一月十二日、敏雄死去。一九九二(平成四)年七月、敏雄の七回忌を機に、ミホ・マヤ奄美に転居。敏雄一年弱、ミホ・マヤ六年半余りの宇宿生活であった。

〔大徳さちさん母娘の思い出話〕
「ご近所だったけれど、母と遠慮しようねとお家には伺わなかったので、お会いした時にご挨拶したり、電車で近くに座って少しお話ししたり、教会の御ミサでご一緒したり…そんなおつきあいでした。島尾さんのお宅は広くて池もありました。見に行ったことがあります。玄関までしか行きませんでしたが」

「島尾敏雄さんは優しい方でした。穏やかに静かに話をされる素敵な笑顔が懐かしいです。脇田電停でよくお会いしました(純心短大へ通勤)。マヤちゃんと二人の時は、島尾さんはマヤちゃんの反対側に座り、マヤちゃんをにこやかに見ておられました。ご家族の話、特にマヤちゃんのことになると可愛いくてたまらない様子でした。とても微笑ましかったです」

「母は、宇宿に引っ越して来られた時は『あの島尾さんが!』と驚いていました。近所でもあり、共通の友人の羽島さちさんがいたので、母は島尾敏雄さんと会合や教会で話が合うようで楽しそうにしていました。島尾さんから『遊びにいらっしゃい』と言われ『そのうちに行こうね』と話していたので、亡くなられた時には本当にショックでした。いつでも行けると思っていたので…」

「島尾さんから『夢の中の日常』と書いた色紙をいただきました。主人が奄美の学校へ転勤した時に県立奄美図書館に寄贈しました」
「アルバムは、詩人の羽島さちさんが第三十六回南日本文化賞(一九八五〈昭和六十〉年)をもらわれた時の祝賀会で撮ったもの。写真の左は母で右は妹。島尾夫妻と写した貴重な記念の一枚です」
*写真(島尾夫妻と大徳さん母娘)
「祝賀会での母は島尾さんに、夏目獏さん、五代夏生さん、相星雅子さんたちを紹介していました」

〔主婦お二人の思い出話〕
「森田商店というお店があり、切手を売っておりポストもあったので島尾さんはよく利用していました」
「島尾さんは、いつも下駄を履いていましたね」
*縦に割れ目の入った桐の下駄だった(伸三さん)。
「ミホさんはきれいな方でした。よく近所の人たちにも挨拶やお話をされていました。果物を買いに来られて、マヤちゃんが何を食べたいと言うと、にこにこして買ってあげていました」
「そういえば、敏雄さんが亡くなってからしばらくミホさんはおかしかったです。猫が通っても『誰かが来る』とか言って」

 大吉さん・今林さん・大徳さんの三人は取材当時九十歳を超えておられたが、貴重なお話を聴くことができて誠に幸いであった。

 二〇二二年六月、二月田の島尾居住跡地に指宿市文化協会等により「案内看板」が設置された。そして十月には、島尾が『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満と一九七七年六月六日に対談をした秀水園にもパネルや著書、対談時に使用した飾り棚など展示が整った。引き続き二〇二三年三月には海音寺潮五郎の「案内看板」も指宿高校に設置された。泉都指宿に文学の彩を添えつつある。

 もう一人、指宿に住んでいた作家がいる。直木賞作家の梅崎春生である。梅崎は昭和二十年のはじめ指宿海軍航空基地(多良浜)で暗号特技兵をしていた。その体験をもとに「崖」(『桜島・日の果て 下巻』新潮社)を著している。しかしながら滞在期間が短い上に戦時下でもあり、梅崎と指宿に関する資料は皆無に等しい。調べようがなく残念に思っている。
前列が島尾夫妻、後列の3名が大徳さん母娘

「島尾敏雄と指宿そして宇宿 」その2    宮島孝男

〔木佐貫煕氏の思い出話〕
 木佐貫煕氏は、濱﨑太平次銅像(指宿市)をはじめ調所広郷(鹿児島市天保山公園)や俊寛の像(薩摩硫黄島)などの作品で知られる彫刻家である。指宿文化協会長も務めた

「私の家では当時、吐噶喇ヤギ(最多時6頭)を飼っていました。餌となる草を妻が殿様湯辺りで刈っていたらミホさんに声をかけられました」
「草刈りの時のことはそんなに覚えていませんが、ミホさんのたたずまいには感銘を受けました。髪をまとめ上げ大島紬を着たミホさんは、キリっとした感じの素敵な方でした。手作りの佃煮をいただいたことも。また敏雄さんが散歩をしている時に行き交うこともありましたが、ニコッと挨拶されました(木佐貫夫人)」

「列車で私の向い側に座っていた女の子(幼く見えた)が、同じく二月田駅で降りました。足が不自由で歩き方がぎこちないし、口もきけない。しかも雨が降っている。私は傘に入れてその女の子宅まで送っていきました。その時、玄関先で迎えられたのが島尾先生でした。これが初対面でしたが、殿様湯には私もよく通っていたのでそれ以前にも会っていたかも知れません」
「その後、指宿文化協会の会長だった幸野白蛾さんに誘われて島尾宅を訪れました。そうしたところ『あの時、娘を送ってきて下さった方ですね』と大変驚かれました。奄美大島のこと、著書のことなど話をされました。屋宮先生(後述)についても。直筆サイン入りの『島尾敏雄作品集 全五巻』はこの時にいただいたものです」

「実は、その前に『島尾敏雄を知っているから一緒に行きませんか』と声をかけてくれていた人がいました(私が「山川文学」というサークルの会長をしていたことももあって)。山川の大成中で一緒に教鞭を執っていた屋宮一馬という国語の教師です。当時の総理大臣佐藤栄作に似ていて「サトウ」の綽名も。屋宮先生はミホさんと親戚関係だったのです。また、島尾先生が『編集を手伝おう』と言って下さったことも覚えています」

「都合何回か島尾宅へ行きました。虫食いの野菜を持っていったことも。日本を代表する作家にしては素朴な家に住んでおられるなあとの印象。家全体が書斎という感じもありました」
「島尾先生が所蔵していた木製の不動明王(未完成だったかも知れない)を見定めて欲しいと見せていただいたこともありました」
「島尾先生が宇宿在住の頃にも、東谷山中にいた私は会ったことがあります」

〔樋園良一さんの思い出話〕
「二十四~五歳の頃、帰郷して失業中だった私は父の店を手伝うことになり軽トラで移動販売を始めました。ミホさんと最初お会いしたのは冬でした。体調が優れなかったのかその時は断られました。一週間後、隣の子連れの若奥さん宅にいたら、ミホさんが手を振って、『ちょっと寄ってみて下さい』とお声をかけて下さり、その後は(在宅の時は)ほとんど毎回いろいろと買って下さいました。敏雄先生が一回だけメモを見ながら買って下さったことを記憶しています。いつもお茶をご馳走になってから帰りました。ミホさんは、丁寧語でやさしい語りをする人でした」

「豚のひれ肉は脂肪分を取ったもの、刺身は赤みのシビ(鮪)をとこだわりがありました。健康志向が強かったです。果物が多かった。夏場はミカンがないので海外から来るグレープフルーツをよく買って下さいました。日常積んでいないお米なども改めて夕方届けることがありました(とにかく一切合切)」
「私が運んできた商品の中からミホさんが選んだもの(志向が分かります)と私とを島尾先生が写真に撮りプレゼントして下さいました。貴重な一枚なのに未だ見つからずとても残念です」

「島尾先生とミホさんから、『日の移ろい』(あとがきに「昭和五十一年十月 指宿二月田にて」とあります)、『死の棘』、『海辺の生と死』(ミホさんのサイン入り)、『島尾敏雄詩集』などいただきました。宝物で今も大切に保存しています。島尾先生は、縁側(座卓)で執筆していました」
「ミホさんが大島紬を着て竹元病院(精神科あり)方向へ歩いているのを見かけたことがありました」
「ミホさんは、言葉が発せず首を振って意思疎通を図るマヤさんについて『急に(小学3年生の頃から)こうなってしまって。アメリカの専門医にも診てもらいたい』と言っていました。診てもらったかどうかはわかりません」

「茅ヶ崎への引っ越し前日に加勢に行きました。伸三さんや伸三さんの友人も来ていました。島尾先生は、帝国産業トラックの社員を気に入っていました。本を詰めた段ボール箱で一部屋が満杯状態でした。私が機(はた)織り機を分解したら、『力道山みたい』とミホさんが言ったことや加勢の後、島尾一家、伸三さん、その友人たちと食べた昼食がおいしかったのを思い出します」

「島尾一家の引っ越しのこの時期にちょうど私は結婚しました。ミホさんから『ここに住みなさいよ』と言われ数か月住みましたが、二人には広すぎる家でした」
「挙式も『お料理がいいから秀水園にしたら』と言われそのようにしました。先生ご夫妻から祝電が届き披露したのですが、残念ながらこれも見つかりません」
「引っ越し後は、年賀状の交換が続いていたのですが、これまた見つかりません。写真、祝電、年賀状などこんなことならしっかり保存しとけばよかったと悔やまれてなりません。私も引っ越しが多くて…」

「敏雄先生の訃報に大変驚き、宇宿のお宅にお通夜に行きました。広い庭のある大きなお家でした。純心短大の方々とかたくさん弔問に来られており、ミサを初めて経験しました」
「吉野に住んでいるものとばかり思っていましたが、そういえば、宇宿を通った時に、一度島尾先生を見かけたことがありました。ミホさんは宇宿の前の吉野の家も気に入っていたらしく『抵当に入っていて残念だった』と言っていました」

「その後も数回、お茶飲みに寄らせていただきました。文鳥がミホさんの肩に留まっていて話しかけると答えていました。ミホさんが出かけると帰りを玄関で待っているのだとか。私がテニスの話をしたら、ミホさんも『東京時代やっていた』と」

「ミホさんから『観葉植物が欲しい』と電話があり、指宿のセンターで手配し五鉢ぐらい届けたことがありました。その時に、昭和二十六年、指宿駅から摺ヶ浜の生駒屋旅館に馬車に乗って行った話なども聞かされました。ふるさと奄美と似た温暖な気候の指宿はいつまでも気に入っていたのでしょう」
「映画『死の棘』の封切り時、ミホ役を演じた松坂慶子から対談をしたいとの申し出があったが断ったと言っていました。理由とかは聞かされなかったです」
「ミホさんから手編みのプレゼントをいただいたことがありました。こちらは添え書きが残っています」

〔前園(旧姓臼木)加代子さんの思い出話〕
「ミホさんはさつまいもが大好きでした。臼木商店に来て、おさつ(さつまいもをミホさんはこう呼んでいました)あります?」と。
「二月田駅から鹿児島の純心短大へ通っていらしたから、島尾先生の姿は毎日のように見かけました。紳士的な感じ。ミホさんも本当に上品で」

「二十二~三歳の頃、東京から本好きの親戚がやって来て、長太郎焼きの辺り(島尾宅の近く)を散歩していたら、『島尾敏雄は東京ではすごい人気で特別な作家だ』というようなことを話しました。強く印象に残っています」

「茅ヶ崎への引っ越し前日、ミホさんが挨拶にいらしゃいました。自宅には報道陣をはじめ多くの来客があるのに、『明日早く立つから』と脱け出して来られたようで(片道徒歩十五分)。ミホさんと固い握手をしたのを思い出します」
「引っ越し後まもなく、那覇から便箋十枚に及ぶ丁重なお手紙をいただきました(国際通りの絵葉書も同封)。流れるような達筆。大切に保存しています」 

*冬期は沖縄で過ごすこともあった。

「島尾敏雄と指宿そして宇宿 」その1    宮島孝男

 島尾敏雄は、第十八震洋特攻艇隊長の体験(加計呂麻島)をもとにした戦記文学や私小説『死の棘』などで知られる昭和を代表する小説家である。九州帝国大学法文学部(東洋史)の学生として福岡でも過ごした。

 島尾一家(敏雄、妻で作家のミホ、長女麻耶〈以下マヤ〉)は一九七五年四月から二年半、指宿市二月田に住み、最晩年には鹿児島市宇宿で暮らしていたが、ほとんど知られていない。
 そこで私は指宿と宇宿時代の島尾一家について調査を行い、二〇二一年に『島尾敏雄と指宿そして宇宿』(私家版)を上梓、その後も島尾一家についてわかったことを同人誌や新聞に発表してきた。この小論は、それらの中から当時を知る人たちの「回想談」「思い出話」を抜粋・再編したものである。

【指宿編】 
〈島尾一家と指宿〉
一、一九七五(昭和五十)年四月~一九七七(昭和五十二)年九月、島尾一家は、指宿市西方一四〇八番地(二月田)に住んでいた。

二、一九七七(昭和五十二)年六月六日「文藝春秋」の企画で、島尾は『戦艦大和ノ最期』等で知られる吉田満と指宿市の或る温泉旅館の一室で対談をした(秀水園と判明)。

三、一九五一(昭和二十六)年七~八月、島尾は指宿温泉に病気療養のためミホ・長男伸三と滞在していた(当時の生駒屋旅館と判明)。

〔大吉道子さんの回想談〕
 指宿に転居してきた昭和五十年当時の年齢は、敏雄五十八歳、ミホ五十六歳、マヤ二十五歳、大吉さんは四十五歳である。
「島尾先生宅は、国道二二六号線から殿様湯に向かい、殿様湯の手前角を左折してすぐの筋を右折し二軒目でした。奄美の南日本新聞の記者さんが見つけてあげたのだとか。

 実は、私は島尾先生とは初対面ではありませんでした。先生がモスクワで開かれた『第一回日ソ文学シンポジウム』(一九六五〈昭和四十〉年)に参加しての帰りに、県立図書館に立ち寄られた時、私もそこにいましたので久保田館長(椋鳩十先生)が引き合わせて下さったのです」

 「引っ越し後まもなく、島尾先生が突然、図書館に来られました。例の物静かな雰囲気で、雑誌棚に配架してある『文集いぶすき』をめくっておられましたが、先生特有の控えめな後ろ姿に、こちらから声をかけるには何とも気後れがして、ためらっているうちに姿は見えなくなっていました。そんなことのあった後日、二月田駅から鹿児島まで一緒の列車に乗り合わせたことがありました。娘のマヤさんも一緒で先生は純心短大の講義に行かれるところでした。
  
 私は、先生の著書『夢の中での日常』を繰り返し読んだこと、その感想や『出孤島記』を読みたいけれどこちらの書店では手に入らないことなどを話しました。先生は、『僕の本は売れないので、出版社が余計に刷ってくれないんですよ。帰ったら一冊ぐらいは残っているかもわからないので、見つけたら送ってあげます』と言われました。私はただ恐縮するばかりで『できましたらサイン入りで』と言いたいのを声には出せませんでした。

 列車の中で島尾先生の方から、『「文集いぶすき」の編集についてはお手伝いしますよ』と言われ、私は飛び上がらんばかりにうれしかったのですが、『はあ…その時はよろしくお願いします』とだけやっと言えました。そして先生は『僕が原稿を書いている時はできませんが、それ以外の時だったら、まあ声をかけてみて下さい』と言われ、風呂敷包みから取り出した原稿に向かわれました。
 結局先生が執筆にかかっておられる時期とかち合い、ご指導を受ける機会はないまま神奈川県茅ヶ崎市へ引っ越してしまわれました。マヤさんは私たちの会話を黙って聞いていました」

 「このようなことがあってから、『「文集いぶすき」投稿者の集い』を計画して島尾先生に当日の講演を依頼しました。『いいですよ』と気安くご返事をいただいてほっとしました。ただ、講師謝礼が指宿市の規定では五千円しか出ないのです。身の縮む思いで了解を得ました。他の団体に持ちかけて共催にする手だても知らず、ずいぶん失礼なことをしたものだなあと、今でも若い日の恥を思い出します。作家島尾敏雄先生のお話が聞けるということで、市役所三階の講堂で開催した『集い』には、創刊号から二十号までの投稿者がほとんど全員出席しました」

 「五千円の謝礼が申し訳なくて、後から山川の新鮮なカツオの腹皮を持って行きました」
「ミホさんはいつも遠くから眺めていました。初対面の時から何回も『遊びにお出で下さい』と言って下さった。講演が終わった帰り際には『是非いらして下さいね』と念を押されたのに。なんかおこがましくて、『そのうちに…』と。今考えると遠慮せず積極的に行っていたらよかったと後悔しています」
「ミホさんの精神状態は安定していたようでした。言動も普通だったし」 
「島尾一家が指宿から茅ケ崎へ引っ越す時に挨拶に行きました。ミホさんと少し会話をしましたが、内容はよく覚えていません。ただ、『空港まで人を送るのには自信がありませんが、荷物なら積んでいけますよ』と話していたら、ちょうど役場の助役さんたちが来られて、市役所が送って行くことになりました。送別会などはなかったように思います」

 「島尾先生に会いたくて殿様湯に来るのを待っていたという青年がおりました。『会えてうれしかった』とわざわざ図書館に報告に来たこともあります。その青年が茅ヶ崎に引っ越す島尾家に挨拶に行った際にも、『大吉さんによろしくね』とミホさんが言って下さったそうです」
 
 「そんなファンの青年がいる半面、当時の指宿のリーダーたちは島尾先生のことをあまりよく知らなかったのではないでしょうか。先生の価値をといいますか。遠慮もあったのかもしれませんが、もう少し先生を活かすことができなかったか悔やまれます」
「穏やかなよかにせさん。あんな立派な人間を人間魚雷にするなんて…。終戦になって本当によかった」

〔今林和子さん〈殿様湯〉の思い出話〕
「島尾さんの住んでいた家は一九九〇(平成二)年にはまだありました。そこまでは確かに覚えています。更地になって久しいです」
「たまに『島尾敏雄が住んでいた所はどこですか?』と訪ねて来る人が今でもいますよ」
「その頃は、あまり家がありませんでした。水道も来ていなかったです」
「島尾さんは、温泉好きでした。朝晩入っていましたよ。前の木造の建物の時です。湯壺が二つありました。白アリの被害がひどくて昭和の終わりに新しくしました」
「島尾家には電話がなかったので、呼び出しに行っていました。電話があったのは、この辺ではうちと長太郎焼さんのみでしたから。新聞社の方からよくかかってきていました」
「島尾さんは物静かな大人しい人でした。本ももらいましたが、弟が持って行ってそれっきり。ミホさんもいい人。時々敏雄・マヤさんと一緒に鹿児島に行っていました。ミホさんは普通でしたが、むしろマヤさんの方がやや気になりましたね」

(つづく)

宮島 孝男(みやじま たかお)
郷土研究家 物書き  1954年鹿児島県生まれ 九州大学文学部(社会学)卒
鹿児島を舞台・題材にノンフィクション、児童小説、エッセー、コラムなどを執筆。著書に『どげんする?鹿児島』『こげんする!鹿児島』『ウォッチ!県議会』『海軍兵と戦争』『豊さんとヒヨドリ次郎の物語』、小論に「島尾敏雄と指宿そして宇宿」などがある。
「生き残ったもの 最後の責任」で「第24回随筆春秋コンクール」奨励賞を、「西郷も大久保も喜んでいる」で「第14回『文芸思潮』エッセイ賞」社会批評佳作を受賞。
鹿児島市在住。

「海音寺潮五郎と指宿」宮島孝男 『文芸いぶすき第69号』掲載

 二〇二三年三月、「案内板」が指宿高校に設置されたが、直木賞作家・海音寺潮五郎が指宿に住んでいたのを知る人は少ない。

 海音寺潮五郎(本名 末富東作)は、一九〇一(明治三十四)年十一月五日、鹿児島県伊佐郡大口村(現、伊佐市)に生まれ、加治木中から神宮皇學館に進んだが、妻となる山川かづとの恋愛問題で自ら退学、翌一九二三(大正十二)年国学院大学へ転学した。
 大学卒業後、旧制指宿中(現在の指宿高校)で働きながら作家を志していた海音寺は、京都に移ると歴史の跡をくまなく見て回り、幕末の資料を仕入れる。創作意欲も大いに湧いて「サンデー毎日」の創刊十周年記念特別懸賞小説に「風雲」が選ばれるなど、作家への道が開けていった。

 一九三六(昭和十一)年には秀吉と利休の抗争をテーマにした『天正女合戦』で第三回直木賞を受賞。以来『天と地と』『平将門』『西郷隆盛』など一貫して歴史ものを書き続けた。しかし惜しむらくは一九七七(昭和五十二)年十二月一日、脳出血と心筋梗塞のため死去した(享年七十六)。
 海音寺が指宿に住んでいたのは、一九二六(大正十五)年国学院大学卒業後、指宿中に国漢の教師として赴任してから一九二八(昭和三)年四月京都府立第二中学校に転任するまでの二年間である。貴重な家族写真が一枚だけ『九十周年記念誌』に載っている。
 指宿中で特筆すべきは、校外浴場と称する学校温泉があったことだ。その当時は教員採用難の最高潮で、初代校長井上専敬は優秀な教師を迎えるためにいろいろな手を使った。泉都指宿の名は魅力の一つ。学校に全国でも珍しい職員専用の温泉を引き、地図上では他県人に分かり難い学校の所在と特徴を宣伝した。助かったのはむしろ寄宿舎生で、よく利用していたという。

 「最初二年間が鹿児島でした。あと六年間、京都二中です。すこし身體を
悪くしまして、鹿児島は郷里でもありますし、温かい所がいいだろうつていうんで、今や日本で最南端ですな、指宿という所の中學へいつたんです。ぼくがいつた時、新設の中學でしてね。最初の五年生が出来たくらいの時でした。實にもう、子供は正直ですしね、いい所でした」(海音寺の語りは原文をそのまま採録。)
 海音寺が指宿中赴任について唯一語ったくだりである。学校温泉には触れていないが、誘因となったのは間違いないと思われる。
 さて、海音寺はどんな教師であったのだろうか。 

「当時の中学校の先生と申しますと、同年輩の小学校の先生方に比べて、きっちり二倍の俸給をもらっておられましたし、非常な権威を持っておられました。その反面変わり種の先生もございました。その代表が私が二年の時に国学院大学から新卒で来られた末富東作先生です。末富先生は週一時間の作文を担当されていましたが、一学期中作文は少しも書かせないで、小説『坊ちゃん』を持って来て、毎時間読んで下さいました。三年になってからは、漢文を受け持ってもらったのでありますが、羽織袴で教壇に立たれました。また、時にはこういう普通のネクタイじゃなくて、今の女学生がセーラー服につけているあのネクタイに類するものを、ここにきっちり結んで、そしてタラッと垂らして授業をされていました」

「顔がずんぐりしていたからでしょうか、先生のあだ名をボンタンと呼んでいたような。無口ですが博識な人でした」
 卒業生が語った当時の海音寺の思い出である。

「ぼくはフロシキでした。それはね、ぼくが普通のネクタイを結べなかつたんで、友達からもらつたボヘミアン・ネクタイを締めていつたら、田舎の子供だから、そういうネクタイを初めて見たんですね。それでフロシキ。それから京都へ来たら、ぼくは髪をモジヤモジヤさせて、服装なぞに一向構わないものですから、無頼漢というアダナでした」
 海音寺本人は、あだ名を「フロシキ」と認識していたようである。

「ぼくは全然、生徒に構いませんでしたよ。教室で騒ごうが、何をしようが、全然無抵抗でしたからね。まあ、いけない先生ですよ。(笑聲)生徒の訓育なんて全然構わん主義で、騒ぎたいなら騒げ、ぼくの話を聴いていなくても平気でした。その代わり、他人の邪魔をするな。聴きたくなければ居眠りしてもいい。それだけは言い渡しましたがね」

「ぼくは學校の教師というのは好きなんです。ただ教師社會というものは嫌いですね。ヘンな教師カタギというものがありましてね、つまらんことに目クジラを立てるし…。ぼくの最初いつた學校なんて、職員の数が二十人にも足りないような小さな學校なんですよ。それで黨派が三つくらいあるんです。校長派とか教頭派とか教務主任派とかね、バカバカしいですよ」

「(職員會議で)ぼくは何んにもしゃべらないで、ただ早く済めばいいと思つてましたよ」

「とにかくチョロイ先生だったんですな」

「私が學校の教師をしてトクをしたと思うことは、いろんな知識が正確になつたことですな。人に教えるということは、廣くなくても非常に正確な知識を必要とするものですからね。教室でまごつくまいとすれば、自然、知識が正確になつてきますね。書物も精讀する癖が附いてゆきますよ」
 海音寺自身が振り返った当時の思い出である。

 海音寺の教師活動でもう一点触れておきたい。指宿中の校友会誌『朱(あか)鳥(みどり)』の題字を海音寺がつけていたことだ。創刊号に筆を取り「校友会誌命名の議あるや多年の愛執を絶って余は愛する指宿中学にこの名称を献上したものである」と記している。表紙の図案は当時、図画と習字を教えていた水沼兼雄が書いたもので、南方宿星の意が実によく表現されている。『朱鳥』は一九三九(昭和十四)年十二号で途絶えたが、そのうち創刊号~四号、八号~十号が県立図書館で見つかっている。

 そんな海音寺もいよいよ指宿中に別れを告げる。理由は海音寺らしいというか意外にもあっさりしたものであった。生活が苦しいので、校長に「月給を上げてくれ」と頼んだところ「君は遅刻するからねえ」と断られ、それならとツテを求めて京都府立二中へ転任した由。焼酎も飲んだが、創作に熱中、よく遅刻していたようだ。
 「海音寺潮五郎と指宿」については以上であるが、執筆の過程で興味深い話を知るところとなった。二点付記しておきたい。

 一点は、海音寺の結婚と再婚についてである。
 海音寺は一九二二(大正十一)年、山川かづとの恋愛が問題となり、神宮皇學館を退学し一時帰郷、十一月三日に結婚する。翌年国学院大学へ転学するが、郷里からの送金が止まったため、卒業できたのはかづのアルバイトに助けられたからであった。
 一九七四(昭和四十九)年、五十余年に亘り、作家の卵時代から海音寺の作家生活を支えたその最愛の妻かづが死去した。酒はめっぽう強く、決して人の前で乱れることはなかった海音寺だが、一度だけ、この時だけは正体をなくすほど酔った。そして「ひとつぼの灰と汝はなりにしを」などいくつもの句を詠んだ。
 なのにほどなく一九七六(昭和五十一)年、国沢富貴子を後妻に迎える。愛妻亡き後、わずか二年でなぜ再婚したのか知りたいところだが、その辺の心境や事情など記した文章は見当たらなかった。

 もう一点は、海音寺と司馬遼太郎の運命的な巡り会いである。
「はじめて懸賞小説を書いた。いまからおもっても変な小説であった。題は『ペルシャの幻術師』というもので、そのただ一人で推賞してくださったというのが未知の海音寺潮五郎氏で、合評の座談会をよんでそれを知った。余りに過(か)褒(ほう)に、読んだあとぼう然とした」
「二度目の作品だが、これまた妙な小説で、題までが制限漢字のどうしようもないものであった。つまり、『戈(ご)壁(び)の匈奴(きょうど)』という。それが雑誌になると、響くようなはやさで氏から、持ち重りするほどに重い手紙を頂戴した。それすら望外なことであるのに、ひらくと、ながい巻紙があらわれ、私を身も世もない気持にするほどにその作品をほめてくださっていた。このときのうれしさは、正確にいえば衝撃といってよいほどで、衝撃のあまり、私は自分に対し、小説を書く一生をえらぶほうがいいとひそかに宣告した」
 司馬が著書『歴史の世界から』に「海音寺潮五郎氏のこと」と題して綴った回顧文である。「海音寺潮五郎なくして国民作家司馬遼太郎の誕生はなかった」のだ。

 この小論の執筆に当たっては、下吹越かおる館長をはじめ指宿図書館の皆様に大変お世話になった。心からお礼を申し上げる。

主要参考文献
『鹿児島県立指宿高等学校創立六十年記念誌』(一九八三年)
『鹿児島県立指宿高等学校創立九十年記念誌』(二〇一二年)
『文藝春秋 1954・12』「懐かしの田舎教師時代 座談会」
『郷土人系 下 南日本新聞社編』「文学界」(一九六九年)
『青春有情 第1巻』(鹿児島新報社 一九七八年)
『TOKYO FM SATURDAY YES!~明日への便り~【鹿児島篇】歴史小説家海音寺潮五郎』(二〇一七年十二月九日)

宮島 孝男(みやじま たかお)
郷土研究家 物書き  1954年鹿児島県生まれ 九州大学文学部(社会学)卒
鹿児島を舞台・題材にノンフィクション、児童小説、エッセー、コラムなどを執筆。著書に『どげんする?鹿児島』『こげんする!鹿児島』『ウォッチ!県議会』『海軍兵と戦争』『豊さんとヒヨドリ次郎の物語』、小論に「島尾敏雄と指宿そして宇宿」などがある。
「生き残ったもの 最後の責任」で「第24回随筆春秋コンクール」奨励賞を、「西郷も大久保も喜んでいる」で「第14回『文芸思潮』エッセイ賞」社会批評佳作を受賞。
鹿児島市在住。

会員の吉村精高氏の西日本新聞寄稿文「糸島・桜井神社のシンガポール上陸図」2024年7月23日

会員寄稿 「三越百貨店とライオン像を創った男」原中 誠志(福岡県議会議員)

会員寄稿 「福岡県庁(舎)の歴史」原中 誠志(福岡県議会議員)

会員寄稿「勤皇僧・月照と『櫛田神社雅楽部』(月照流清音社)」原中 誠志(福岡県議会議員)

 博多と言えば「博多祇園山笠」ですが、『櫛田神社』には「博多祇園山笠」が奉納されます。毎年、7月15日は「追い山」ですが(コロナ禍で2020・2021年は見送り)、7月15日の本来の行事は、博多の人々の安寧と平和を願う『櫛田神社』の神事の中でも特に大切な祈願の儀式「祇園例大祭」です。この「祇園例大祭」が行われないと、追い山神事は行われません。

 その「祇園例大祭」で毎年、雅楽が演奏されていますが、この雅楽を演奏しているのが「櫛田神社雅楽部」です。そして、この「櫛田神社雅楽部」こそ、幕末の勤皇僧・月照の流れをくむ「月照流清音社」なのです。

「櫛田神社雅楽部・月照流」の謂れ
1.起源
 「櫛田神社雅楽部」は、今をさかのぼること天慶四年(941年)『藤原純友の乱』の際、勧請された「祇園宮」をお祭りする祭典のとき、奏楽される雅楽のために組織された楽人集団を起源とされています。
 しかし、その始まりは今となっては定かではありませんが、「櫛田神社」祇園宮とともに歴史を同じく重ねてきたと伝えられています。

2.「月照流」名前の由来
   江戸時代後期、尊皇攘夷の風が吹き荒れるなか、西郷隆盛とともに京都より九州に逃れてきた勤皇僧・月照が博多に逗留の折、「櫛田神社」の楽人が楽の教えを請い、其れに際し月照は快く受け、楽を教えました。
  その後、月照は博多を出て南の地、鹿児島で自害という形で最期を遂げます。その後、訃報を聞いた博多の楽人たちは、月照の最期を哀れに思い、またその教えに感謝し、以来、月照を偲び、流派の名前を「月照流」と命名し、今に続いています。

3.「櫛田神社雅楽部・月照流」と宮内庁雅楽の違い
 「櫛田神社雅楽部・月照流」の奏でる雅楽は宮内庁のそれとは若干趣を異としています。まず一番の相違点は宮内庁の名派共通の「明治選定譜」の楽譜と月照流の楽譜の違いです。
 長い武家社会の間、雅楽は京都、奈良、大阪の三方楽所によって、それぞれ個性の違う楽曲、楽譜、奏法などが伝承されてきました。
 明治維新後、武家社会が終わり、明治維新とともに、三方の個性を調整し、楽譜も「明治選定譜」として統一されました。(ただし、各派独自の奏法、節回しなどがこの選定譜で調整、統一されたということに問題点を指摘する研究者もあります。)

 音色でもその違いを見つけ出すことができます。「櫛田神社雅楽部・月照流」の音色は、「祇園宮」の御神体スサノオノ大神のお祭りの際に奏する楽にふさわしく、力強く、勇壮な音色を特徴としており、宮内庁の優美で雅な楽とは一線を隔すものです。
 「櫛田神社雅楽部・月照流」は、楽曲、楽譜、奏法など宮内庁の調整統一されることなく伝承され、されています。

4.「櫛田神社雅楽部・月照流」の歴史と伝統
 「櫛田神社」には、櫛田大神、須賀大神、天照大神が祭られています。それぞれのお祭りの際には、社家町、祇園町、川端町がそれぞれに祭典の奏楽を受け持っていました。
 明治・大正時代には、「月照流清音社」の構成人員は50人以上を数える大きな楽人集団であった言われています。
 また、昭和初期までは、「住吉神社」、「鳥飼神社」、「豊国神社」等の御遷宮にも「月照流清音社」は、楽を奏していたといいます。
 ところが先のアジア太平洋戦争の戦禍によって、博多部は焼失、町民の離散と後継者難のために社家町が先ず姿を消し、秋祭りの「博多おくんち」を受け持っていた川端町もまた、後継者を得る事が出来ず姿を消してしまいました。
 最後の一ヶ町、祇園町だけが戦前から祇園町を中心とした楽人を集め、「清音社伶人会」を作り、戦後も「月照流」の奏楽をもって『櫛田神社』の「祇園宮」の祇園大祭と、本来川端町が受け持っていた、五穀豊穣に感謝する「博多おくんち」の祭典に奉仕を続けてきました。
 残念なことに、時代の洗れと共に後継者も途絶え、「月照流」を受け継いできた「清音社」の人の高齢化と減少によって、遂に昭和50年代には解散の止む無きに至りました。
 しかし、「櫛田神社」前宮司・阿部邦彦氏の「博多の町の文化の炎を消してはいけない」の呼びかけに同した元「清音社」の人々と博多の町の若者たちによって、1985(昭和60)年4月に「櫛田神社雅楽部・月照流清音社」として再び産声を上げました。
 以来、楽人の方々は年間地道な活動を続け、古くから続く博多の伝統の「月照流」雅楽を後世に伝えるため、日々研鑽に励まれています。

※1:今回、「櫛田神社雅楽部・月照流清音社」の歴史と謂れを聞かせて頂き、資料を頂いたのは、この雅楽を引き継ぐ楽人で、博多祇園山笠西流冷泉3区の荒牧宮総代(「櫛田の焼きもち」代表)、小島取締(「博多冷泉町 萬はし本店」代表)でした。(24/01/22)。 

※2:「博多祇園山笠」を発信している「山笠ナビ」にも、この雅楽の事が取り上げられています。

https://www.hakata-yamakasa.net/yamakasanews/2022/06/17/gagaku_renshu2022/

「谷山神社をめぐる近代史の考察」9(最終回)  今村太多志

※12月13日アップ分です。初めて読まれる方は下の1~8からお読みください

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9  松方と大隈をめぐる二つの強引な仮説

 2回に亘る総理大臣を経て、松方正義が成し遂げたことは、「日本銀行設立」と「金本位制」でした。この実績は、決して小さなものではありません。大隈重信のような巨大な論客をはじめ、意見の異なる人は多かったのですが、信念を曲げませんでした。その源泉はどうもフランスにあるようだ、というのが私の仮説その1です。

 もう一点の仮説。松方正義の信念。「日銀設立」「金本位制」がフランスで得たものであったにせよ、別なところから得たものであったにせよ、「結果論」で見ると少なくとも大正時代までは「正解でした」と言って良いのではないでしょうか。それは、現在の「グローバリズム」を意識したものだったのではないか。

 松方正義・大隈重信は1868年(明治元年)幕末混乱期の長崎で会っています。

 江戸時代、長崎港は佐賀藩と福岡藩が隔年交代で警備を行っていましたが、元治元年(1864)その制度は廃止されます。すると坂本龍馬の海援隊はじめ、勤王・佐幕両派様々な人物が長崎に集まり混乱を生じます。幕府方、長崎奉行所の河津祐邦(かわずよしくに)という人物は、鳥羽伏見で幕府軍が敗れたことを聞くと、フランス船を買収して公金一万七千両を持って逃亡を図ります。長崎にとっては治安上の危機であったと言えます。この時に現れるのが松方正義と海援隊の佐々木三四郎という人物です。二人は河津を屈服させ、この公金を活用して長崎の治安。秩序を維持しようとします。その時、松方は幕府方の役人を説諭して帰順させています。

 松方と佐々木がこの時残した組織が後に「長崎裁判所」として明治政府の傘下に入るわけですが、それまでは各藩合議で万事を運営しようということになり「会議所」と名付けて各藩交代で勤務するということになるのです。しかし実態は松方と佐々木が協議して運営していたようなのです。これは相当な実務能力だと言っていいでしょう。この「会議所」に佐賀藩から来ていたのが副島種臣と大隈重信だったのです。この時松方正義33才、大隈重信30才、副島種臣40才(単純に生年と西暦を引き算した満年齢)でした。ここに長州の井上聞多(馨)32才も赴任してきています。明治財政の大家と言われる松方・大隈・井上が長崎の「会議所」で同席していたのです。松方と大隈は、双方とも互いに芳しい印象は持っていなかったようです。松方はここから日田県知事に任命されています。

 この時長崎に来ていた松方正義は、島津久光の命で外国船の買い付けに来ていました。幕府の公金で運営されていた長崎奉行所が瓦解した時に、その公金は新体制で引き継ぎ、治安維持のため(つまり国家のため)に使うべきであると「正論」を吐いて幕府方の残党を帰順させた、という行動には舌を巻きます。普通の人にできることではありません。長崎奉行所は古い組織ではありましたが、必要があって存在していた役場です。時代は変わってもその「必要」が無くなるわけではありません。それならば維持し、活用しなければなりません。これが「正論」です。その結果長崎奉行所は長崎裁判所へと引き継がれました。

 松方には江戸幕府による「古い日本」を、「滅びゆくもの」と考えていた気分を感じられません。時代が変わって修正が必要なだけで、壊せば良いというものではない。「理想の社会」は「現在と別の所」にあるわけではない。現在を修正・発展させれば、理想に向かい、近づく。それは明治維新を「革命」のように語る考え方と根本的に違うような気がします。この時代の「新しさ」とは、西欧列強であったことでしょう。西欧列強に近づくために必要なこと、その時の日本に欠けていたこと、それを丹念に修正していくしかないではないか、という粘り強さを感じるのです。そこに大隈重信の持つ「強引な」「圧倒的な」「力強い」論法との差を私は感じています。この強引な仮説には、大隈重信側からの考察もなさなければなりません。

 日本はその後明治37~38(1904~1905)年に日露戦争を戦うこととなり、その際ユダヤ資本クーンロエブ商会のヤコブ・シフたちから巨額の資金を借りる結果となりました。それでなければ戦えなかったのだから仕方なかったのかもしれません。日露戦争で負けていたら日本がどうなっていたものか想像もつきません。これを返済し終わったのは、昭和60(1985)年だったと言います。80年間、大東亜戦争の最中も戦後の焼け野原の中でも返済を続けていたということです。そんなことまでしてやらなければならない戦争だったのかという思いがありますが、これが現実の歴史です。私たち後世の人間は、しっかりと歴史を学ばなければなりません。

 令和の現在、大隈重信の実績は早稲田大学という形で思想のみ残っておりますが、松方正義の実績は鹿児島においても研究が不足していると言わざるを得ません。「グローバリズム」という切り口で見れば、大差なかったのかも知れません。が、今の日本のありようが大きく変わっていたのかも知れないという気分があります。興味の尽きないところであります。

 

参考資料 ●『日本銀行百年史』日本銀行百年史編纂室編(昭和57年9月)

  • 『ミネルヴァ日本評伝選 松方正義』室山義正著 

ミネルヴァ書房(2005年10月)

  • 『松方正義 日本財政のパイオニア』藤村 通著

 日経新書(昭和41年)

  • 南朝『忠臣』の顕彰について―記念碑を素材として

 栗林文夫 黎明館調査報告

「谷山神社をめぐる近代史の考察」1~8  今村太多志

※11月末の維新の源流を考える薩摩路ツアーを記念して、鹿児島の会員の今村氏がレポートを寄稿してくれました。9回に分けて掲載させていただきます。(事務局)

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1 松方正義が建てた谷山神社

私は一昨年来、谷山神社に興味をもっておりました。

 谷山神社は後醍醐天皇の第九皇子、懐良親王を御祭神とする神社です。当然その成り立ちからして、南北朝時代と大きな関りがあります。神社の駐車場の隅に、この神社の建設に松方正義が大きくかかわっていることを記した石碑が立っております。私はこの石碑を見たとき「あの明治の財政家の松方正義なのか?」と意外でした。松方正義と南北朝時代と一体何の関係があるのだ?と思ったのです。すると松方正義はこの谷山神社ばかりでなく、征西宮跡記念石碑の建設にも大きくかかわっています。明治24年~25年、明治29年~31年と二回も内閣総理大臣を経験した人物ですから財力もあり、小規模の神社や石碑の建立費ぐらい大した負担でもなかったのでしょうが、私は気になることが他にもありました。

 幕末から明治期、松方正義の実績を追ってみると二つの点にこだわっていることが分かります。それは「日本銀行の創設」と「金本位制」です。松方は、なぜこのような方針を持つに至ったのでしょうか?

 明治初期の日本で、最も大きな出来事は、廃藩置県でしょう。版籍奉還によって、武士の統治を朝廷に返しました。何しろ日本中の武士が失業したのですから、これは大変です。秩禄処分が行われ、一時金などが支給されたりしましたが、士族の苦労は尋常ではなかったでしょう。士族授産といって、新しい仕事を紹介されたりしました。福島県の安積原や栃木県の那須野原での開拓などが行われました。が、士族の苦労は募り、不満は高まっていきました。明治10年には薩摩で西南の役、明治7年には佐賀の乱、明治9年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など不平士族の反乱が相次いだ。最大の内乱となった西南の役では、4,157万円の戦費が必要となり、第十五銀行の銀行券が発行された。これらは政府にとっても大きな負担であった。当時、新設された銀行からの銀行券、藩が発行する藩札、等が濫発された。これは不換紙幣であり、裏付けが無く、信用されにくかった。明治10年西南の役が終わった時には、不換紙幣の濫発により「悪性インフレ」が進行していました。明治11年までは、薩摩出身の大久保利通が政府の中心人物でしたが、11年紀尾井坂の変で暗殺されて以来、伊藤博文、大隈重信が政府の中心となっていきました。中でも財政政策に関しては大隈重信が中心でした。大隈は積極財政論者で、外債発行によって局面を打開しようと考えました。

2 陸軍皇道派って南朝支持派?

 谷山神社が建てられたのは昭和3年です。実はこの昭和一桁の時期、鹿児島では多くの石碑が建てられております。鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まったのが1333年ですから、その600年後は1933年、昭和8年になります。1333年後の数年間で、南朝北朝共に名だたる武将が戦死しております。楠木正成1336年没・新田義貞1338年没、名和長利1336年没、千草忠顕1336年没、などです。彼らの没後600年ということになります。昭和史を見てみますと、昭和15年が紀元2600年にあたる紀元節でしたので、日本中で記念行事が開催されております。日本中に顕彰碑が建てられ、建設記念イベントが催され、昭和15年の紀元2600年、紀元節の機運を盛り上げることになっていたのでしょう。

 

 征西将軍宮懐良親王御所記念碑 大正十一年 御所ケ原城(鹿児島市) 松方正義

 楡井頼仲顕彰碑        昭和五年 弓張城(高山町) 東郷吉太郎

 矢上高純顕彰碑        昭和六年 矢上城(鹿児島市) 平田猛

 知覧忠世顕彰碑        昭和八年 亀甲城(知覧町) 佐多武彦

 楡井頼仲顕彰碑        昭和十年 松尾城(志布志町) 菊池武夫

 肝付兼重顕彰碑        昭和十年 日和城(高城町) 荒木貞夫

 足利義昭他顕彰碑       昭和十年 険刃城(串間市) 菊池武夫

 肝付兼重顕彰碑        昭和十二年 東福寺城(鹿児島市) 菊池武夫

 市来時家他顕彰碑       昭和十四年 鶴丸城(いちき串木野市) ?

 渋谷重基顕彰碑        昭和十七年 清色城(入来町) 大久保利武

 

 行末に記したのは揮毫した人物名です。「東郷吉太郎」というのは海軍軍人で東郷平八郎の甥です。「佐多武彦」は陸軍軍人で島津家の血筋の人物です。「菊池武夫」は陸軍軍人、熊本の菊池一族、男爵菊池武臣の息子で南朝支持の人物でしょう。予備役編入後貴族院議員となり、「逆賊」である「足利尊氏」を礼賛したということで、商工大臣を辞任に追い込んだりなどしている熱血漢です。「足利尊氏は逆賊である」というのは南朝の言い分です。「荒木貞夫」は陸軍皇道派の重鎮、犬養・斎藤内閣の陸軍大臣として有名な人物です。「大久保利武」は大久保利通の三男です。おそらく鹿児島以外の土地でも、紀元二千六百年を祈念するイベントは日本中で行われたのでしょう。

 鎌倉幕府滅亡の1333年は正慶二年・元弘三年です。年号が二つあります。この二年前(1331年)、後醍醐天皇の勢力と鎌倉幕府得宗家勢力との内乱を機に後醍醐天皇が元弘への改元を詔します。幕府や対立する持明院統は認めていないのですが、実質的に南北朝時代が始まっています。そして二年後の1333年に鎌倉幕府は滅亡します。この年から翌年の1334年の二年間建武の新政が行われました。建武の新政はなかなか上手くいかずに、その後も戦乱が続きます。南朝・北朝ともに、多くの武士がその数年後に戦死しています。従って、この1333年の数年後ぐらいの間に、名だたる南朝の武将が亡くなっております。従って600年後の1933年(昭和8年)頃に、「没後600年祭」顕彰碑などが建てられるというのは理解できるのですが、その事業にかかわっている人物が陸軍の皇道派の人々であること、なぜその事業に松方正義が(あるいは遺族が)かかわり、巨額というほどではないにせよ、神社建設や石碑建立の費用を出しているのか、気になるところでした。

3 松方正義と福岡藩との最初の関係、セゴドンもかかわった贋札問題

 松方正義という人は、わかりにくい人物です。それに福岡藩とも関係があります。維新後、松方は明治元年四月に日田県知事に任命されます。日田県は大分県の西端、福岡県と接する地域で、江戸幕府は天領でした。この日田県知事時代に松方が苦慮したのは、贋札の流通でした。この贋札製造を行っているのが福岡藩であることが分かり、松方は苦慮しました。明治に入っておりましたが、廃藩置県以前でしたので、まだ藩が存在していたのです。藩主黒田長知(ながとも)の前藩主黒田長溥(ながひろ)は、薩摩藩からの婿養子です。薩摩藩と福岡藩は親戚関係にありましたから、黒田家は島津久光に問題の解決を依頼してきました。薩摩藩では当時大参事であった西郷隆盛に善後策を命じ、西郷は尽力しました(明治3年7月)。結果、福岡藩の幹部5名が斬罪でしたが、知藩事(藩主)の黒田長知は免職、閉門ですんだのでした。

 明治初期の鹿児島は何といっても西南の役が一大事件でした。西郷隆盛が没し、翌年の明治11年には大久保利通も暗殺されました。ただ松方正義は大久保が死んでから、急に出世したようです。松方は非常に能力が高かったにも拘わらず要職には就けず、「副」のポジションで、「薩摩閥が多いと妬まれるから辛抱してくれ」という意味のことを大久保に言われていたようです。西南の役の時大蔵大輔(おおくらのたいふ)(大蔵卿は大隈重信)であった松方は、4,157万円余掛かったという戦費の調達に苦労しましたが、第十五銀行の発行する銀行紙幣が大きな役割を果たしたといいます。まず鹿児島の人間として意外な点、なぜ松方正義は西郷隆盛の死に冷淡なのでしょう。動揺している様子はほとんど感じられません。

4  人生を変えたフランス大蔵大臣

 西南の役が終息すると、松方正義は渡欧します。「勧業局長兼仏国博覧会副総裁心得」という肩書です。ここでも「副総裁」の「心得」です。渡仏するのは明治11年2月です。明治10年9月25日に西郷が没し、西南の役が終わっていますから、その死を知って、後始末が終わった頃です。翌明治12年3月に帰朝しています。

 松方正義はこの一年ほどの間に、興味深い人々と交流しています。その第一はフランスの大蔵大臣レオン・セーです。この交流は重要で、松方は後に「今や余は大蔵卿の重任に当たり、日本帝国の財政を負担するの際、かつて閣下の示教せられたものを実行する機会を得……」と明治16年の書翰で自ら述べている通り、レオン・セーにははかり知れない影響を受けています。ほかにセ―の高弟であった経済学者ボリュ―や、仏国議官兼博覧会事務官長カランツから影響を受けています。カランツからは鉄道敷設に関する留意点を学んだようです。松方は明治14年以降大蔵卿及び大蔵大臣を歴任します。鉄道敷設にあたっては積極論をとりますが、その源流はここにあったようです。

 また、松方はこのフランス滞在中に、中央銀行設立に関してレオン・セーにフランス銀行を研究したい旨申し出ています。それに対しレオン・セーは「仏蘭西銀行は設立が古く、運営方法に因襲による不都合もあって、日本人には研究しにくいだろう。それよりも出来たばかりの白耳義(ベルギー)銀行が研究しやすいからそちらを研究すると良い」と、松方にアドバイスを行っています。松方はその言に従い、随行してきた加藤済という大蔵権小書記官をベルギーに残留させ、ベルギー国立銀行の制度を研究させています。

 松方は明治12年に帰朝しておりますが、その頃国内は西南の役の戦費調達をはじめ不換紙幣を濫発したことによる「悪性インフレ」に陥っておりました。大久保利通は明治11年に加賀藩士族の島田一郎らにより暗殺。政府の実権は、内務卿伊藤博文、大蔵卿大隈重信に移っておりました。

 この時期の明治政府には様々な懸案事項がありましたが、中でも財政問題です。松方は『財政管窺(かんき)概略』を13年6月、太政大臣三條実美に提出しています。これは強烈な批判書です。「管窺」ですから、「細い管から周りの景色をうかがうような」という意味です。題名からして財政のことが「何も見えていない」・「見識がない」とでも言うような、かなり感情的で痛烈な批判です。よく自信満々にこんな題を付けたものだと思います。その時財政を担当していたのは大隈重信でしたが、不換紙幣の濫発による信用低下、「悪性インフレ」の収拾がつかなくなっており、物価高で反政府活動である「自由民権運動」などが活発化しておりました。松方はそうとう頭にきていたのでしょう。大隈は国会創設で目先を変えることと、五千万円の外債発行によって金をつくることで、局面を打開しようとしていたのでした。貨幣価値の分かりにくい明治初期ですが、国内の紙幣流通額がおよそ九千万円といわれていた頃の五千万円の外債ですから、いかに巨額のものだったのか想像がつきます。これに松方正義が痛烈な批判。当然大隈重信は大激怒です。この「財政管窺概略」については、現在日本銀行が「日本銀行百年史」の中で解説しておりますが、この時代としてはかなり画期的な論文であったようです。この松方・大隈の対立を調停しようと伊藤博文も動くのですが、翌年有名な「明治14年の政変」で大隈と大隈系官僚が政府を追放されます。この政変は松方・大隈の対立が原因ではなく、直接の原因は「開拓使官有物払下げ事件」が発端です。北海道開拓使長官の黒田清隆が官有物であった工場や土地を、廉価・無利子で五代友厚に売却しようとしたことが原因です。一千五百万円ほどの価値があると言われていたものを三十八万七千円の無利子三十年払いで売却しようとしたのですから、それは反発をかうでしょう。これを認可していた大隈も批判にさらされました。新聞各紙が大騒ぎをし、あげく明治天皇まで巻き込んで御前会議で大隈罷免が決定されました。黒田清隆も開拓使長官を辞任し、政府顧問という閑職へ左遷。大隈罷免後、後任は伊藤博文になりましたが、結果的に松方正義が大蔵卿に就任したわけです。松方正義の「通貨整理」「中央銀行設立」論。大隈重信の「積極財政」「外債発行」論。どちらが有効な政策だったのでしょうか?松方の策は正攻法であまりに保守的な気が、大隈の策は楽観的すぎるような気がします。結果的に政府は松方案を選択したのでした。この政変は原因が薩摩出身の黒田清隆・五代友厚ですから薩摩閥の匂いがするのですが、この払下げ話を新聞各紙にリークし大騒ぎにしたのは誰か?という議論は陰謀論も含んで未だに様々あるようです。

5   相当悲惨だった「松方デフレ」、地元でも人気のない松方正義

 これを機に「松方デフレ」政策が実現するわけです。この時の政策で松方がこだわったのが「紙幣整理」すなわち不換紙幣の回収・焼却、「日本銀行を設立」し紙幣発行規律の一元化をすることでした。その結果、様々な経緯があるのですが、「松方デフレ」政策は効果がありました。「悪性インフレ」を抑え込んだばかりでなく、社会は安定してゆきました。

 しかしながら、デフレ政策ですから、多くの人々が苦しむこととなりました。中でも明治17年におこった秩父事件は大事件でした。現在の埼玉県秩父地方で起きた民衆蜂起でした。この地方は「生糸」の生産が盛んでしたが、輸出先のヨーロッパの不況で「生糸」価格が大暴落。悪いことが重なったものです。デフレで、紙幣の流通量が減っていますから、手元に現金がない。それなのに増税をします。生活費も税金も借金でまかなうしか方法がありません。借金は増えるばかりで、土地まで失い困窮。「困民党」という名前の集団を作り、武装蜂起をします。「困民党」ですから、理想を求めているというよりも、「他に方法がありません。分かってください」とすがっているようにしか見えません。デフレの時に増税をするのですから、上手くいく訳がないのです。貯えのある人ならば持ちこたえられるというだけの話です。貯えの無い人は破産、流民化する。しかし他にどういう方法があったのでしょうか?これは簡単な問題ではありません。秩父事件では数名が死刑になり、四千人を超える人物が検挙されています。びっくりするような規模の大きさです。数千人が参加しての武装蜂起ですから治安にかかわります。

 こういう事件が秩父ばかりでなく全国で多発したようです。松方正義は、この困窮した人々を見て平気であったはずがありません。誰でも同情するものです。これが「松方正義は冷たい人物である」という印象を与え、政治家として人気がない。西郷隆盛の逆です。松方正義は彼の出身地、地元鹿児島でも知らない人が多い。しかしこれは、致し方ないことなのでしょうか?

 ここでもう一点、前述のベルギー国立銀行を参考にして中央銀行(日本銀行)が設立されたことに関して付け加える点があります。日本銀行は明治15年10月に開業しますが、当時の日本は、銀行札(第十五銀行発行の西南戦争戦費4,173万円など)、藩札、贋札もあった、などの不換紙幣が過多に流通しておりました。それで、紙幣の価値に信用が無かった。信用できる紙幣というのは兌換紙幣です。

 当時は銀本位でした。銀の地金で物々交換みたいに商売をするのも現実味がありませんが、兌換紙幣というのはそういうイメージです。こういう風に地金と交換できますよ、と約束している紙幣のことを「正貨」と呼んでいたようです。この「正貨」のイメージを持たせるために重要なのが「中央銀行の株の半分」だったのだそうです。明治15年3月の時点で、政府は不換紙幣の整理を着々と進めてはいたのですが未だ不十分で、兌換の日本銀行券を発行すればたちまち兌換されることは明らかだったため、「正貨」準備の蓄積が進んでから兌換紙幣の発行を認める、としました。これでは「中央銀行」は信用されない、という批判のために「政府はこの中央銀行を全力で支える」その証明のために「資本金の半分以上を政府が支出する」としています。当時日本銀行の資本金は1000万円だったそうです。ですから500万円を超える額を政府が出しています。この「株の55%を政府が持つ」というのは、現在でも同じだそうです。

6 雑な衆議院選挙、始めたのは伊藤

 ここで、もう一つの松方正義と玄洋社の接点を見てみましょう。松方は明治14年以降大蔵卿及び大蔵大臣を歴任します。初代総理大臣の伊藤博文(在任M18.12/22~M21.4/30)2代総理大臣黒田清隆(任期M21.4/30~M22.10/25)、この2代黒田内閣の時、明治22年10月18日、来島恒喜による大隈重信の襲撃事件が起こっています。3代総理大臣山縣有朋内閣(任期M22.12/24~M24.5/6)の時、松方は政府の財政政策に貢献し続けます。

 そんな中、明治23年7月に第1回衆議院議員総選挙が実施されます。三代山縣有朋内閣の時です。この内閣の大蔵大臣は松方正義でした。現在の衆議院議員選挙と当時の選挙は制度が異なっていたようです。第一回衆議院議員選挙では「野党」である「民党系」が勝利します。「民党系」には立憲自由党・立憲改進党があり、「与党」である「吏党(政府党)」には、大成会・国民自由党などがありました。「民党系」は総議席三〇〇の内、一七一名を当選させており、過半数を制しました。野党勝利ではなく、「野党圧勝」と言って良いのではないでしょうか。政府与党は、国政選挙では初回から「負けスタート」だったのです。しかし、最初から「民党系」と「吏党(政府系)」と色分けがしてあるように、過半数を取っても「民党系」が政権党になるわけではありません。政府はあくまで「吏党」が担います。これでは「ねじれ国会」もいいところで山縣内閣は苦労します。第一議会、第二議会と続きますが、第一議会を通過したところで、議会「民党」の要求で山縣内閣は行き詰まります。山縣は、自らは総理大臣を辞職し、伊藤博文が後継内閣を組織するよう推薦します。伊藤は固辞します。理由は「民度が低く、憲法政治を行うことは容易ではない。この状況では、誰が首相になっても永続性はない。自分には敵が多いので暗殺される危険がある」と上奏して大命を拝辞しました。「誰がやっても上手くいくわけがない」というわけです。そう言っておいて、後継に西郷従道と松方正義を推薦しました。

 西郷従道は、兄を理由(西郷隆盛は明治10年に没していますが、明治22年に名誉回復しています。この時は明治24年4月です)に固辞。温厚な松方は別に拒否をしなかったのでそれで総理大臣に決まりました。空気感として、伊藤の「誰がやっても……」というなげやりな発言、行き詰ると「薩摩閥」に押し付けるという「長州閥」の無責任を感じます。憲法政治や選挙制度とは、いつ誰がやっても難しいモノなのでしょう。

7  「誰がやっても上手くいかない」総理大臣

 こういう経緯で総理大臣になったわけですが、経緯からしてはっきりと「貧乏くじ」です。多分、基本的に選挙制度が時期尚早だったのでしょう。世間に対して憲法制定と選挙開始を、政治的に利用した結果のような気がしてしまいます。しかし、与えられた仕事から逃げた方が得をする、という選択肢を考えない松方は総理大臣になります。

 ところがこの総理就任は「貧乏くじ」どころではありませんでした。明治24年5月5日に総理大臣に就任してわずか六日後、5月11日に大津事件が発生します。大事件です。初の国賓として来日していたロシアの皇太子(ニコライ二世)に対して、警備をしていた巡査の津田三蔵が切りつけたのです。巡査が警備をしている「ロシアの皇太子」にケガを負わせたのですから、これ以上ない不祥事です。松方は総理大臣として大審院院長(現在の最高裁判所長官にあたる)である小島惟謙に対して大逆罪を適用するように迫りますが、日本の皇室に対する犯罪は大逆罪であるが、外国の皇室に対する犯罪は大逆罪の適用には当たらないと断られてしまいます。結局明治天皇が直接ニコライ二世のお見舞いに出向いて、事なきを得て帰国しました。明治天皇本人をお見舞いに出向かせたことが、松方には大きなショックだったようです。

 こんな中で行われたのが第二回の衆議院議員選挙です。選挙は明治25年2月15日に行われました。大津事件の翌年です。第一回目の衆議院選挙を見ても、選挙は野党「民党系」に有利なのは分っていました。ここでまた「民党系」が勝利し、「ねじれ国会」の様相を呈すると、政府はますます混乱します。この選挙で、玄洋社も参加した「選挙干渉」が行われたのです。明らかに与党である「吏党」側に立ち、「民党系」の支持者に圧力を加えました。玄洋社は、元々自由民権運動を行っておりました。土佐出身の板垣退助が行っていた運動と同じ民権を守る活動です。自由民権運動は反藩閥政治ですから、どうしても反政府の方へ傾きます。玄洋社は「民党系」側の運動をするべきであると思われていたのですが、はっきりと「吏党」側に立ち「民党系」の支持者に圧力をかけたのです。「裏切者」扱いでした。「民党系」の活動家は感情的になり、暴力事件も頻発しました。けが人も多く出ました。玄洋社も参加して「選挙干渉」し、批判された第二回衆議院議員選挙は、それでも「民党系」が勝ちました。しかし、「選挙干渉」が功を奏して、圧勝ではなく過半数も取れていません。「吏党」の方も議席数を伸ばしています。中間派に近い数議席の議員を説得することで、逆転勝利が可能となりました。「選挙干渉」という手段を選ばない強引なやり方でしたが、松方はここまで勝利に近づいたのです。有無を言わさぬやり方でした。

8  伊藤博文の寝技

 ところがこの時に、松方正義総理大臣の足を引っ張ったのは、身内の人物でした。閣内から「選挙干渉」への批判が出たのです。後藤象二郎逓相、陸奥宗光農商相の二人が責任追及ののろしを上げました。さらに元老の枢密院議長伊藤博文が強硬な責任論を述べて、内閣に干渉してきたのです。選挙の時は品川弥二郎という長州出身の内務大臣が、先頭をきって選挙干渉をやりました。この品川弥二郎を更迭するよう要求します。選挙が終われば「選挙干渉の責任追及」をやり始めた後藤象二郎も陸奥宗光も選挙の時は、「選挙干渉の立役者」と言われる程、干渉していたのです。自作自演の反松方総理キャンペーンと言われて反論できないでしょう。

 どういうことなのでしょうか?要するに、伊藤博文が「誰がやっても……」と明治天皇に上奏した内閣運営を、伊藤博文閣下よりも上手くやってはダメなのよ、ということなのでしょう。政治的野心に乏しい松方にしてみれば「そういうことか」という気持ちだったでしょう。さっさと総理大臣を辞任します。明治25年7月30日辞表提出。日本が西欧列強に伍して存続し続ける形とは何なのか?そういう極めて難しいことと取り組んでいる最中に「政治的寝技」などやっていられないではないか。こうやって松方の第4代内閣総理大臣は終了します。

 次の第5代内閣総理大臣は伊藤博文である。驚くのは、第6代は、第2次松方内閣なのです。追い出しておいて、すぐに指名する。伊藤博文の政治手腕、「寝技」とはこういうことを言うのでしょう。徹底的に無感情で合理的ですらあります。深い目的がありそうで、決して薄っぺらくありません。西郷や大久保ならいざ知らず、松方には「寝技を寝技で返す」というような芸当は、どうもできそうな気がしません。松方には、正攻法でじわじわ攻め勝つ、それまで辛抱するという以外はダメなイメージがあるのです。

 

 

 

 

 

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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