①「神代橋の由来について」(久留米市山川神代)
文永11年(1274)、蒙古が博多に襲来した時、神代良忠(くましろ・よしただ)は筑後川に橋を架け肥後、薩摩、日向、大隅の諸軍を渡河させた。その渡河の方法は、筑後川に船を並べ、その上に板を渡すというものだった。全軍を渡し終えると、神代良忠は架橋し、更に、それを終えると自軍を率いて博多に向かった。
その後、建治2年(1276)3月には、人夫を引き連れ石塁普請にも参加し、弘安4年(1281)の蒙古の再襲来にも参戦している。
この渡河を容易ならしめたとして、神代良忠は執権北条時宗から感状をもらっている。
この神代良忠にちなみ、現在も「神代橋(くましろばし)」として現地に碑が遺る。(現在、堤防上の道路拡幅のため、碑は移されている。)
「執権北条時宗の感状文」
将軍家政下、於博多津去文永十一年蒙古襲来之刻、肥後、薩摩、日州、隅州之諸軍馳参之砌、筑後神代之浮橋、九州第一難所之処、神代良忠以調略諸軍輙打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥福、扶桑永代為安利之由、所仰如件
建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣
(参考)
・鎌倉幕府の第六代将軍は宗尊親王(むねたかしんのう、後嵯峨天皇の皇子、1252~1265)で、北条時宗の烏帽子親(元服の時冠をかぶせる役)
・第七代将軍は惟康親王(これやすしんのう、宗尊親王の嫡男、1266~1288)
・皇族の将軍は名目、実権は北条氏が掌握
・第八代将軍は久明親王(後深草天皇の皇子、1289~1307)
・第九代将軍は守邦親王(久明親王の皇子、1308~1332)
浦辺登