一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

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②西郷南洲謫居跡(鹿児島県大島郡龍郷町龍郷166)

西郷隆盛が奄美大島潜居時代に暮らしていたという家に行った。

 西郷にとっては3年間の奄美大島生活(1859年~1861年)における3度目の家で、愛加那と長男菊次郎と暮らすために建てた家とのこと。自ら土地を探し設計にも関わり1861年11月に完成、その直後藩から召喚状が届き、結局2カ月しかこの家での生活はなかった。ひょっとしたら西郷は、もはや帰還はないと腹をくくって家を建てたのかも知れない。家を建てたら転勤になるという話は現代でもよく聞く話である。
 その後、愛加那と菊次郎と西郷帰還後に生まれた長女菊草が暮らし、子供たちが薩摩に渡ってから後、愛加那は兄の子丑熊を養子として貰い受けて、明治35年(1902年)66歳で没するまでここで暮らしていたとのこと。

  現在の家は明治43年に再現されたもの。現在は丑熊から数え4代目の龍氏が所有されている。龍氏によると、再現とは言え、使える木材は使っており基礎もそのままとのことで、龍氏はこの家で生まれ育ったとのことであった。現在も茅葺屋根であり、ほぼ西郷南洲が住んできた当時を彷彿とさせる造りとなっており、県指定の重要文化財となっている。

 家屋の管理も龍氏が行っており、たまに暮らしていた当時を懐かしんで寝泊まりすることもあるとのことであった。お話からこの家に対しとても愛着を持っておられることが窺えた。

 

 家屋は見学が可能で、家の中には西郷南洲や愛加那の肖像画、菊次郎の写真のほか、屋敷正面にある勝海舟手蹟の碑文の拓本などが掲示されている。

 龍氏の話では、台風などで何度か家が壊れたが西郷南洲の建てた家を壊してはいけないとの一心で先祖代々改修を重ねてきたとのこと。また、西南戦争で片足を失った菊次郎が1年ほど愛加那のもとで療養生活を送っていたが、片足を失ったショックから自暴自棄になっており、愛加那が困っていたなどの話を聴くことが出来た。

 近くにあるという愛加那のお墓の所在を尋ねたところ、テレビドラマ化後、観光客が大勢押しかけ、共同墓地でもあるため地元の人々が非常に不愉快な思いをしており、どうか墓地外からでの遠目の墓参にして欲しいと懇願されたので行くのは遠慮した。一歴史ファンとして考えさせられる話であった。

 なお、先に述べた勝海舟の碑文は、青森県弘前市出身の笹森儀介が明治時代に西郷遺跡記念碑運動を起こし、勝海舟に働きかけて実現したもの。笹森儀介は、元々は探検家で、南島探検で奄美大島を訪れた縁で大島島司(現在の大島支長に当たる)に就任、島民を借金地獄から救い生活の向上を図った人物で、近くには「笹森島司顕彰の碑」も建立されてる。

 また、近くには「西郷翁上陸の地」(1959年西郷が上陸した地)や「愛加那の泉」(西郷が妻子のために買い与えた畑近くの井戸)などがある。

 永井 宏治

現在も愛加那の養子の末裔の方が住んでいる
当時を彷彿とさせる家屋
家屋の中
勝海舟の碑文が刻まれた石碑

①村田新八修養乃地(鹿児島県大島郡喜界町大字湾20)

村田新八は大久保利通に次の時代のリーダーとして期待されていたにも関わらず、西郷に従い西南の役で散った男である。岩倉使節団の一行として世界を見ており、生きていれば確実に総理大臣として日本を引っ張った逸材と言われる人物でもある。

西南の役の主戦論者は桐野俊秋、別府晋介、篠原国幹、辺見十郎太等のイケイケ組で、同じ鹿児島組でも村田新八や永山弥一郎などは、無益な戦いであることを理解しており、最後まで回避のための努力をした。

新八は西郷より8歳下で西郷と、同じ下加治屋町の郷中で育った。
文久2年(1862年)西郷とともに島津久光から寺田屋事件扇動の嫌疑をかけられ、喜界島に1年8カ月流されている。
沖永良部島で牢に入れられた西郷とは異なり、新八の喜界島での暮らしは比較的自由だったようで、身を寄せた島の中央にある喜島家で子供たちに学問や武術を教え、島の人々にも溶け込み慕われていたとのこと。新八の教え子の一人には浜上謙翠という奄美諸島の殖産のために力を発揮した人物がいる。

喜界島は奄美大島の東側25kmにぽっかり浮かぶ隆起サンゴの小島で、現在人口は約6500人、サトウキビ、白ごま、タンカン等の柑橘類の栽培が盛んな島です。石碑は島中央にある喜界郵便局から喜界小学校に抜ける道沿いの民家の敷地の中にあり、道路越しに見ることが出来る。

なお、喜界島には大久保利通の父親の利世が「お由良騒動」で流され5年暮らしている。古くは壇ノ浦で敗れた平資盛(平清盛の嫡男重盛の二男)が落ちてきたり、平家物語で有名な鹿ヶ谷事件の首謀者の僧「俊寛」も流されていたとの伝説もあります。

 

永井 宏治

村田新八修養乃地碑

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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