崇福寺(福岡市博多区千代)にある玄洋社墓地に向かった。ここには、来嶋恒喜(くるしま・つねき、安政6年~明治22年、1860~1889)の墓碑があることから、その墓参りである。
明治22年10月18日、午後4時過ぎ、外務大臣大隈重信を乗せた馬車が外務省官邸に入ろうとした刹那、来嶋は爆裂弾を投じた。その後、大隈襲撃成功を見届けた来嶋は持っていた短刀で、自らの首に刃を突き立て、自決した。現代に至るも、この来嶋の行為をテロリズムと評する人がいる。確かに、大隈の生命を狙ったことは凶行と批判されても仕方ない。しかし、当時の日本が置かれた状況、なぜ、来嶋が襲撃を決意したのかを理解せずに、表面的な事由でテロリズムと呼ぶことには疑問が生じる。
嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが来航。以後、砲艦外交で屈辱的な条約を結ばされた。「和親条約」「通商条約」と名目は親睦的な条約のようだが、実態は半植民地としての条約だった。日本国内で外国人が罪を犯しても日本側は裁判で罪に問うこともできない。貿易における関税率も日本側に決定権はない。いわゆる「不平等条約」である。
この改正に動いていたのが外相の大隈重信だった。大隈は大審院判事に外国人を入れることを条件に、欧米諸国との条約改正の交渉を行っていた。明治22年2月11日に発布された大日本帝国憲法の条文には、官吏は日本人でなければならないという条文がある。が、しかし、それを無視してである。一説に、イギリスの新聞がこの条約改正内容をすっぱ抜いたというが、実態は、政府内部から漏れていた。それが自由民権運動団体に流れ、日本全国が条約改正反対の異を唱えた。集会を開く、新聞で批判をするなどが、政府はすべて弾圧に回った。
テロリズムの定義には「社会不安、恐怖を与えること」とある。しかし、この条約改正問題では、政府の方が弾圧という不安、恐怖を日本国民に与えていた。その窮余の解決策が、来嶋による大隈襲撃だ。政府の背後に蠢く欧米列強の策謀を破壊する最終手段だったといえる。
来島恒喜が所属した自由民権運動団体の玄洋社と大隈重信は対立関係にあると思っている方が多い。しかし、玄洋社初代社長の平岡浩太郎の葬儀では、大隈が弔辞を読み、聖福寺(福岡市博多区)の平岡の墓碑側にある顕彰碑には、大隈の名前が刻まれている。この事実を語ると、たいていの方は理解が及ばずに怪訝な表情をされる。
数世紀にわたって欧米列強の植民地支配を受けたアジア各国の活動家たちは、来嶋の墓参の折、「アジアの英雄」と来嶋を称える。その意味を振り返らなければならない時期に日本は来ているのではないか。私憤と公憤の区別もつかず、来嶋をテロリストの範疇に置く言葉の限界がきていると考える。
令和4年(2022)10月19日
浦辺登