一般社団法人 もっと自分の町を知ろう

福岡市周辺

⑦楊ヶ池(やなんがいけ)神社跡碑(福岡市博多区店屋町7-18)

福岡市営地下鉄箱崎線「呉服町駅」近くに「博多渡辺ビル」がある。このビルの入り口左手にあるのが、楊ヶ池神社跡碑という石柱。いったい、この石碑は何だろうと思っていたが、ここはかつて、「太閤町割り」の中心部にあった神社跡を示すものだった。「太閤町割り」とは、戦乱で荒廃した博多の町を豊臣秀吉が復興した際の区割りのことをいう。

宝暦6年(1756)、池のほとりに神社が落成し、周囲に柳があったことから「楊ヶ池神社」と呼ばれた。チンチン電車こと路面電車が敷設されることになったことで、明治42年(1909)、この神社は辻の堂の若八幡宮に合祀された。石柱は、その合祀された楊ヶ池神社の跡を示すものだった。

かつて、同地には土俵があり、博多商人の渡辺与八郎、電力の鬼の異名をとる松永安左衛門が相撲をとったこともあったという。この渡辺与八郎は路面電車敷設のみならず、博多の町の殖産興業に寄与した。その功績を称え、没後、「渡辺通り」という通り名が遺された。

かつて、福岡市民に欠くことのできない交通機関が路面電車だったが、今は地下鉄にとって代わった。それでも、渡辺与八郎を顕彰する通りの名前は健在だ。小さな石柱だが、渡辺の功績を示す意味からすれば、その存在意義は大きい。

浦辺 登


⑥弘法大師空海の清水(太宰府市観世音寺4丁目17)

観世音寺(福岡県太宰府市)の本堂裏手に廻ると、そこには何らかの建物があったことを示す礎石が順序良く並んでいる。昔の絵図からすれば、そこは修行僧たちの僧房があった場所だ。大同元年(806)10月、唐の国から帰国した空海(弘法大師)は観世音寺の僧房に2年ほど潜んでいたという。

観世音寺は斉明天皇の菩提を弔うため、天平18年(746)に天智天皇によって建てられた。その僧房に空海(宝亀5年~承和2年4月22日、774~835)が居たことに、小さな驚きがあった。今では、その僧房跡には、近くの山から下りて来たイノシシがミミズを求めてしきりに掘り返した跡が目につく。

この僧房後から道なりに北に進むと、点々と民家がある。その一軒の玄関先に「池渕弘法大師」と墨書された看板がある。経年劣化で判読しづらいが、ここに、弘法大師が使ったという清水(泉)がある。民家の庭先にありながら、落ち葉や異物が落ち込まないよう屋根まで設けてある。その清水が湧き出る側には樹木があるが、その根元には2つの仏を彫り込んだ石がある。「ある」というよりも、樹皮が石を覆っている。遠い将来、樹木が石を飲み込んでしまうだろう。

備えてある柄杓で清水を掌に受けると、鮮烈という感触が伝わる。無味無臭、弘法大師が僧房に居た時にも使ったとの口伝が申し送りされている。清水を管理されている民家の主にお礼を述べて立ち去る時に思い出した。観世音寺の山号は「清水山」だ。

更に、今も清水が湧き出ているということは、1000年の歴史を軽々と体験できるということだ。この不思議を経験しないのは、実にモッタイナイと思った瞬間だった。

 

令和4年(2022)11月11日:浦辺登

看板
池淵弘法大師清水

⑤「さいふまいり分岐点の史跡」(太宰府市坂本1丁目2-7)

古くからの九州・博多の人々は太宰府天満宮(福岡県太宰府市)参詣のことを「さいふまいり」と言う。毎月25日、太宰府天満宮のご祭神である菅原道真の命日である25日に参詣するのを習わしとしていた。

現代のように、催事が豊富にあるわけでもなく、更には、理由もなく方々に出向くのも憚られる時代、「月命日」のお参りという大義名分の「さいふまいり」は人々の楽しみでもあった。

 *菅原道真の命日は延喜3年(903)2月25日

博多の町からは日田往環とも日田街道とも呼ばれる道を進む。ここでいう日田とは、現在の大分県日田市のことだが、江戸時代は幕府の天領があったところ。九州一円を管轄する日田と博多とを結ぶ街道は、人の往来、物品の行き来と同時に情報伝達の道でもあった。その日田街道と「さいふまいり」との分岐点が遺されている。西鉄(西日本鉄道)大牟田天神線「都府楼前駅」から東に歩いて5分ほど、御笠川の橋のたもとにある。「鳥井・潮井台・道標・常夜灯」との看板があるので、その由来がわかる。

まず、鳥居(看板には鳥井と表示)だが、文久2年(1862)に第11代福岡藩主の黒田長溥(くろだ・ながひろ)が建立したもの。道標は元禄4年(1691)に建てられ「是よりだざいふ参詣道」と彫られている。常夜灯は菅原道真の900年大祭の折に建てられたという。いずれも、経年劣化で判読がむつかしく、看板があるのはありがたい。

ふと、なぜ、黒田長溥は鳥居を寄進したのだろうか・・・と思った。そこで思い至ったのは、長崎海軍伝習所のオランダ人教官カッテンディーケが「さいふまいり」をした際、太宰府天満宮との間で揉めたことを解消(謝罪)するためではと考えた。安政5年(1858)10月19日、博多に来航したカッテンディーケを福岡藩主黒田長溥は太宰府天満宮へと案内した。しかし、当時、聖廟に異国の人が足を踏み入れることは忌み嫌われた。記録類には、淡々と箇条書きの事実のみが記されている。

そんな想像を逞しくする中、せわしなく車が往来する。さらには、鳥居をくぐる。隔世の感があるが、古の人々と同じく徒歩で史跡を訪ねるのも一興と思った。

令和4年(2022)11月3日
浦辺 登



日田街道の常夜灯
日田街道の鳥居

④「アジアの英雄」来嶋恒喜の墓参り(福岡市博多区千代 崇福寺内)

崇福寺(福岡市博多区千代)にある玄洋社墓地に向かった。ここには、来嶋恒喜(くるしま・つねき、安政6年~明治22年、1860~1889)の墓碑があることから、その墓参りである。

明治22年10月18日、午後4時過ぎ、外務大臣大隈重信を乗せた馬車が外務省官邸に入ろうとした刹那、来嶋は爆裂弾を投じた。その後、大隈襲撃成功を見届けた来嶋は持っていた短刀で、自らの首に刃を突き立て、自決した。現代に至るも、この来嶋の行為をテロリズムと評する人がいる。確かに、大隈の生命を狙ったことは凶行と批判されても仕方ない。しかし、当時の日本が置かれた状況、なぜ、来嶋が襲撃を決意したのかを理解せずに、表面的な事由でテロリズムと呼ぶことには疑問が生じる。

嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが来航。以後、砲艦外交で屈辱的な条約を結ばされた。「和親条約」「通商条約」と名目は親睦的な条約のようだが、実態は半植民地としての条約だった。日本国内で外国人が罪を犯しても日本側は裁判で罪に問うこともできない。貿易における関税率も日本側に決定権はない。いわゆる「不平等条約」である。

この改正に動いていたのが外相の大隈重信だった。大隈は大審院判事に外国人を入れることを条件に、欧米諸国との条約改正の交渉を行っていた。明治22年2月11日に発布された大日本帝国憲法の条文には、官吏は日本人でなければならないという条文がある。が、しかし、それを無視してである。一説に、イギリスの新聞がこの条約改正内容をすっぱ抜いたというが、実態は、政府内部から漏れていた。それが自由民権運動団体に流れ、日本全国が条約改正反対の異を唱えた。集会を開く、新聞で批判をするなどが、政府はすべて弾圧に回った。

テロリズムの定義には「社会不安、恐怖を与えること」とある。しかし、この条約改正問題では、政府の方が弾圧という不安、恐怖を日本国民に与えていた。その窮余の解決策が、来嶋による大隈襲撃だ。政府の背後に蠢く欧米列強の策謀を破壊する最終手段だったといえる。

来島恒喜が所属した自由民権運動団体の玄洋社と大隈重信は対立関係にあると思っている方が多い。しかし、玄洋社初代社長の平岡浩太郎の葬儀では、大隈が弔辞を読み、聖福寺(福岡市博多区)の平岡の墓碑側にある顕彰碑には、大隈の名前が刻まれている。この事実を語ると、たいていの方は理解が及ばずに怪訝な表情をされる。

数世紀にわたって欧米列強の植民地支配を受けたアジア各国の活動家たちは、来嶋の墓参の折、「アジアの英雄」と来嶋を称える。その意味を振り返らなければならない時期に日本は来ているのではないか。私憤と公憤の区別もつかず、来嶋をテロリストの範疇に置く言葉の限界がきていると考える。

令和4年(2022)10月19日
浦辺登

③「中島徳松邸跡」(福岡市博多区寿町)

JR南福岡駅(福岡市博多区寿町)から歩いて5分ほどの場所にある南福岡ローレルハイツ(3棟のマンション)を訪ねた。一見、どこにでもあるマンション棟だが、余裕のある敷地内には古くからその場所にあったと思える樹木がいくつも目に付く。敷地の東側は「筑紫通り」と呼ばれる幹線道路があり、その向こうには「夫婦池(めおといけ)」と称される広大な池が目に付く。どこにでもありそうな、住宅地でしかない。

しかし、その昔、ここは中島徳松(明治8年~昭和26年、1875~1951)という炭鉱主の邸があった場所だった。マンションの敷地も、筑紫通りに面して広がる「夫婦池」も、この中島徳松の邸があった場所。近在で生まれ育った人によると「中島邸」と呼んでいて、子供の頃、広い敷地で遊んだこともあったという。

この広い敷地を有した中島徳松は、一介の炭鉱夫から炭鉱主に成り上がった人だったが、今では、地元の方々もその名前すら知らない。大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、中島の邸は進駐してきたアメリカ軍に接収され、そして、失火によって焼失。その更地に、マンションが建設され、今に至っている。中島は、他にも邸を所有しており、多くの著名人が招かれたようだが、この地を訪ねきた人としては大川周明(明治19年~昭和32年、1886~1957)しか判明していない。大川周明とは、あの東京裁判(極東国際軍事裁判)で被告となり、法廷に下駄ばき、パジャマ姿で登場。東條英機の頭を後ろから叩くなどして狂人とみなされ、精神病院送りとなった人だ。その大川の遺した中島徳松の追悼文に「雑餉隈(ざっしょのくま、現在の南福岡一帯)の(中島)翁の邸宅でお世話になった。」との記述がある。

この中島徳松の邸だが、元々の持ち主は加野宗三郎という地元博多で「金盛」という酒を醸造販売する資産家の持ち主だった。加野が所有している時代、多くの文化人が訪ねてきたことが判明している。詩人の北原白秋、画家の青木繁に小野竹喬、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻などである。特に、青木繁は、末期の水を加野がとっており、文化人のパトロンとして加野の存在が知れ渡っていたことがわかる。しかし、加野が所有する工場が火災によって焼失。以後、家産が傾き、邸を中島徳松に売り渡したようだ。(一説には、炭鉱主の麻生家とも)

今では、マンション棟と夫婦池の間を筑紫通が分断し、往年の面影すら探し求めるのがむつかしい。わずかに、門柱が遺る程度。マンション住人も、かつて、文化人らが訪ね来た歴史的な場所とは、思いも至らない。機会があるとき、周辺を歩いてみるのも一興かと思う。

 

令和4年(2022)10月15日

浦辺 登




②「原采蘋の私塾跡」(筑紫野市山家)

 亀井少琹(亀井昭陽の娘、亀井南冥の孫)と並び称される才女がいる。それが原采蘋(はら・さいひん)という男装の漢詩人だ。この采蘋の実父は秋月藩(福岡藩の支藩)の藩校稽古館の教師であり、亀井南冥に師事した。南冥の息子、亀井昭陽とは「昭陽の文、古処の詩」として亀門(亀井塾の一門)抜群、双璧と称えられた。

 その原古処の娘として、原采蘋は寛政10年(1798)4月、誕生した。幼名を猷(みち)という。原采蘋は父について学んだが、特筆すべきことは男装に身を包み、諸国を行脚して学問の向上を図ったことだ。京都では頼山陽、簗川星巖と交流を持ち、江戸では松崎慊堂の支援を受け、勉学に励んだ。

 しかし、実母の体調が優れず、筑前福岡に帰国。嘉永3年(1850)、長崎街道山家宿(やまえじゅく、福岡県筑紫野市)に「宜宜堂(ぎぎどう)」という私塾を開いた。その塾の跡が遺されているが、碑には次のような漢詩が刻まれている。

 

謝人贈魚 原采蘋

千里省親帰草盧

山中供養只菜蔬

謝君情意深於海

忽使寒厨食有魚

 

【意訳】

千里の道も厭わず親元に帰省し、せめての孝行にと思うけども山中だけに野菜しかない。

しかし、台所に行けば魚が用意されていた。あなたの海の如く深い心遣いに感謝します。

 

 「原古処の女詩文を能くす書に至ては殊に巧なり、亀井少琹と女流の二巨手と称せられる」(筑前人物志)と評された。その采蘋も安政6年(1859)10月1日、旅の途中、長州萩で亡くなる。62歳だった。

 尚、原采蘋の弟子には秋月藩の戸原卯橘(とばら・うきつ)がいる。戸原は文久3年(1863)、平野國臣が主導した「生野の変」に参戦し、事敗れて自決した。

  浦辺登

【参考文献】

・森政太郎編『筑前人物志』文献出版、昭和54年

・三松荘一著『福岡先賢人名辞典』葦書房、昭和61年

・アクロス福岡文化誌編纂委員会編『福岡県の幕末維新』海鳥社、2015年

・浦辺登著『維新秘話福岡』花乱社、2020年




原采蘋私塾跡碑
原采蘋遺跡漢詩碑

①「戦争遺蹟の長垂公園」(福岡市西区今宿)

 福岡市の中心部から糸島市(福岡県)方面に向かう途中、生の松原(いきのまつばら)という景勝地がある。海原を右手に見ながら進むと、左手に長垂公園(ながたれこうえん)がある。JR九州筑肥線が海岸線に沿って走っているが、その線路がトンネルになる一帯が長垂山であり、その麓の公園がそれになる。

 この長垂公園(福岡市西区今宿長垂)の駐車場一画に一枚の看板がある。そこには国指定天然記念物「含紅雲母ペグマタイト岩脈」と記されている。今から75年以上も前の大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)中、ここは陸軍が所管する場所だった。リチュウム、セシウム、ウランを含む珍しい鉱物が採掘され、紫色の石を近くの日本稀有金属(福岡市西区横浜)に運び込み、ハンマーで砕いていたという。戦争が激しくなると、学徒動員の学生が数百人単位で動員された。抽出した物質は軍用飛行機の蛍光塗料の材料にするためと言われていた。今も、この長垂公園を歩くと、キラキラと太陽の光に反射する雲母を含んだ石がころがっている。行楽地に向かう車で道路は渋滞しているが、ほとんどの方は長垂公園に関心はなく、今津湾の海に見とれている。

 時折、電子兵器の研究所が糸島市近辺にあったなどとの噂を耳にする。詳細はまったくわからない。もしかしたら、この長垂山で採掘されるウランを使っての兵器開発だったのかもしれない。カナダの外交官であり、GHQの調査分析課長であったハーバート・ノーマン(実は、コミンテルン・スパイでもあった)は、博多湾には巨大な海軍基地があるなどとレポートに書き残していた。確かに、分散して小規模の海軍基地が存在していたが、本来の目的はこの鉱山と秘密兵器を開発する研究所の存在を探知したかったのではないか。

 今では、そんなきな臭い話の欠片も感じられない長垂公園。今津湾の海を眺めながら、ころがっている雲母の石コロに想像を膨らませるばかりだった。

 浦辺登


 

雲母の看板
雲母を含んだ石

ある日突然、見慣れた景色の中から、懐かしい物が消えてしまった。そんな経験をされた方は多いと思います。世の事情と言ってしまえばそれまでですが、せめて、どうにかならなかったのか、何か遺せる手段はあったのでは・・・という後悔の念だけは残ります。 個人の力では限界がある。故に、「もっと自分の町を知ろう」という共同体を創設し、有形無形の財産を次世代につなげる。これが、一般社団法人「もっと自分の町を知ろう」という団体を設立する目的です。

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